"日本" に関するエピソード

「これまでで一番悲しかった時」

29歳 女性のストーリー
これまで一番悲しかったことは祖母が亡くなったことです。
祖母とは家族の中で1番仲が良いと言っても過言ではないくらい仲良しでした。小さい頃からずっと一緒にいるので祖母がいるのは当たり前と思っていました。しかしだんだんと大人になっていく中で祖母と触れ合う機会少なくなっていき反抗期の時期には祖母に八つ当たりしたりしたこともありました。それでも祖母は私のことをいつも優しく見守ってくれて応援してくれました。私が何か悩んでいるときは私を心配して電話くれたり深くじっくり悩みを聞いてくれていました。祖母は私にとってかけがえのない存在でありとても大切な人でした。それでも人間にはいつかは死の別れがくるものです。しかし私は祖母が癌になっていることに気がつきませんでした。わたしは祖母が癌になっているちょうど時に留学をしたのですが私の留学中に祖母の状態は悪化していき私が留学から日本へ帰る頃にはもう末期の状態になっていました。留学中なんども悔みました。なぜ私は留学をしてしまったのだろうと。留学をしなければ残り少ない祖母の命と向き合えたのにと後悔しました。祖母は私が日本に帰ってきてから2週間後に亡くなりました。今でも祖母が夢に出てきて涙が出てきます。祖母が天国で楽しく過ごしていることを想像しながら人生後悔しないように精一杯生きて生きたいと思うこのごろです。

「これまでで一番驚いた話」

34歳 男性のストーリー
キャデラック1993年式に乗っていた時、後ろの
ナンバープレートを落っことした話です。
夜、ドライブに出かけて帰る途中、ガソリンを入れにセルフスタンドに行き給油口がトランクの真ん中にあるためそこに移動したところ
なんとなくいつもよりリア周りがすっきりしているなと思ったらあれ、ナンバープレートがないと気付き、
どこかで落としたかしか考えられずとりあえず、警察署に向かいナンバープレートを落っことした旨を伝え紛失届けを提出しました。
1週間後、警察署より電話があり、日本道路公団の方が発見してくれたとのこと。しかしナンバーは多くの車に踏まれごちゃごちゃの状態で見つかりました。
通常、乗用車はリアナンバープレートには封印がしてあった落ちないはずなのでが一体どうやって落ちたのか?とても驚いたお話でした。

「わたしの周りで一番お金持ちの人」

49歳 女性のストーリー
身内の話で申し訳ないのですが、私の1番身近なお金持ちの人は旦那の母親です。
旦那の母親の両親の話まで行くと身元がバレてしまうので簡単な説明になってしまうのと、夫婦であっても旦那の父親は逆玉の輿なので、資産は全て母親のになります。
海外在住ですが、私の旦那の母親はある地方で工場経営をしていたり牧場(牛2000頭くらい)も持っていています。
後は地方に家を15軒所有しており他の方に賃貸で貸しています。
私は結婚するまで旦那の母親が金持ちだと言う事を知りませんでした。
結婚式が終わった時に、私にはエメラルドとダイヤモンド(鑑定書付)の指輪とピアス、ブラックパールのネックレスをくれて、私達には結婚祝いと言う事でトヨタの新車と一軒家を買ってくれました。
はい、これと鍵を渡された時は驚きました。
私は経済大国日本からの嫁です、旦那は途上国の国民です。
日本ではこの様な義理の母の様な方に会った事は無いです(身内と言う意味です)
34歳 女性のストーリー
以前勤めていた会社の上司と一緒に、上司の知人に挨拶に行ったことがあります。
健康食品の販売や美容系の講習などを行っている方で、自宅である都内のマンションにお邪魔しました。
天井の高い、何十畳もありそうな広~いリビングに通され、そのお宅ではお手伝いさんとそのお子さんも一緒に暮らしているようでした。
忙しくされているようで、日本全国や海外を転々とされているようで、翌日も海外で仕事だと言っていました。
眺めの良いリビングでハーブティーをいただきながらお話を聞いている時間が、とても非現実な感じがしたのを覚えています。
後日、あのマンションの家賃がわたしの給料半年分に匹敵するような金額だったと聞き、世の中にはそういう部屋に簡単に住めちゃう人がいるんだなと感じました。
そんな、自分にとっては殿上人のような方でしたが、液晶がバキバキに割れたスマホを持っていたのがギャップを感じてちょっとおもしろかったです。
43歳 男性のストーリー
私の大学時代の先生はもう停年退職されておられますが、
金融資産は1億以上あるとのことです。
東大卒業で、博士号を持ち、大学の教員となり、国立大学の教授と
なられたので、生活は全く困ってないようでした。
退職金も3000万円以上もらったそうです。
自分で行なっていた資産運用でも1000万円以上の利益が出ているようです。
現在は、80歳で、元気に暮らしておられます。
その先生は、健康に気をつけておられましたが、
国立大学の教授になった先生でも、若くして病気で亡くなられる先生も
おられました。
せっかく仕事で第一線に立つことができても、途中で亡くなっては、
日本国にとっても損失ですが、残された家族もとても悲しい思いをされるでしょう。
26歳 男性のストーリー
ダントツで海外保険と資産運用を手がけいるフリーサンスの営業マンですね。

拠点はインドネシアにしており、そこではファミリーで暮らしています。
奥さんも子供もインドネシアでそれぞれ会社勤めと学校に通っており、インターナショナルスクールの費用はハンパではないと嘆いていましたが、正直そこまで大変そうではありません。

というのも、月に一回はビジネスクラスで日本に帰ってきては高級クラブに連れて行ってくれたり、別荘でBBQを楽しんだりと、その人がいないとできないことばかりを経験させてくれます。

学生時代からの友人で、最もしょうもないことで笑い合っていた友人なのですな、最も成功している人であり、私も大きく稼ぎたいなぁと思っています。

「これまでで一番お金を無駄にした話」

46歳 女性のストーリー
大学時代、家を出て一人暮らしをしていた頃の話です。
日本のことわざシリーズというビデオテープセットを50万程度でいつのまにか購入することになり、当時二十歳前後だった私は、クーリングオフ制度の使い方も分からず、50万のローンを組むことになりました。
当然親には内緒で月15000円程度の返済が始まりました。
ただでさえ実家からの仕送りだけではお金が足りず、
アルバイトをして生活していたので月15000円の借金返済も厳しくなり、
最終的には実家の親に泣きつき、残債を支払ってもらう事になりました。
ビデオテープ購入のきっかけは、今思えば、知らない男性からのデート商法でした。
当時、失恋したばかりの私にたまたまヒットしたのでしょう。
電話でのやり取りが続き、誕生日には花キューピットでバラの花束が届きました。
そうしているうちに、国文学科だった私に日本のことわざシリーズのビデオセットの購入を勧められ、
なんかおかしいな。と気にしながらもローンを組んでしまいました。
彼女気分で、購入するときに印鑑を押してしまい、
その後は連絡が取れなくなりました。
彼女気分といっても、相手とは電話で話すだけで、
印鑑を押す時が最初で最後の出会いでした。
苦い思い出です。

「人生で一番運が良かったなと思う出来事」

34歳 男性のストーリー
私が人生で一番運が良かったなと思う出来事、それは「この国(日本)」に生まれてきたことです。
少し大袈裟かもしれませんが、人やモノ、国などの歴史が好きな私からすると、日本という国は、国としても、文化や風習、民族意識に至るまでとても魅力的で、特異であるということです。
古くは神話や伝承から始まり、国家の起こり、文化の発展、技術の進歩など、およそ2000年間に目まぐるしく事は動き続けています。
しかも、単一国家としては世界最古の歴史を持っています。
今年「令和」へと元号が変わりましたが、ルーツである中国では今は使われていない文化を大事に伝えています。
残念なのは、現代社会が進歩すると同時に、民族レベルが下降気味になっている点です。
かつては確かに存在した「奥ゆかしさ・思いやり」という概念は薄れつつあります。
もちろん、絶望はしていませんが身勝手な人が増えた印象は拭えません。
しかし、技術的にも文化的にもまだまだ可能性はあります。
この奇跡とも呼べる国に生まれてきたことを誇りに、日々精進していきたいです。
長文失礼しました。

「わたしの周りの結婚できなそうだなという人」

44歳 男性のストーリー
自分の海外に住んでた経験からすると、海外に住んでて自分は日本の価値観や男が合わないとほざいている日本人女性。
それは、要するに言い換えると、一歩下がって男をたてるとか、自分中心でないといけない、わがまま、礼儀、言葉使いが終わってる。そういう女性が多いです。
そういうのは大抵30代後半から50代くらいまで、で、外人と一度結婚してたりして、失敗してる人が多いです。
また、犬を買ってる女性。これも朝、晩の散歩やら、結局犬、要は自分の生活中心で、相手に合わせようとしない。自分が空いた時間のタイミングのみデートをしたいとかいってくるので、こういう人は無理ですね。
まず、他人を尊重するとか、そういうことがないので無理ですね。
で、そういうのに限って自分のみためはまぁまぁいけてると思ってるので、自分が本気出せば男がよってくるとおもって余裕ぶっこいてます。が、何回かデートしたりしてくると、そういう性格が露見されて、あーあそびでたまにあうのならいいけど結婚は無理だなと男のほうが思ってきます。
自分は男性なので男目線からかきました。

「わたしがやめられないもの」

27歳 女性のストーリー
私が辞めたくてもやめられない事はタバコですね。10月に消費税がまた上がるといいますがタイミングよく使用していたアイコス本体が壊れてしまい、二日間辞めることも検討しましたが結局吸いたいっという欲求のが買ってしまい新しく購入してしまいました。。
タバコは無駄遣いな様な気がするのですが吸いたいというメリットがあるので何年もこの考えから抜け出すことが出来ずに禁煙本も読みましたが完全にタバコ好きが消えません。
今後禁煙がもっと当たり前になり喫煙所が限られた日本になると思いますが、その時までに辞めたい気持ちはあります。。
他人本望です。。

海外では既にもう禁煙が広まっており日本は世界と比べた際には遅れている方だとききます。先のことを考えた際にはやめられないけどやめた方が賢明。。
26歳 男性のストーリー
納豆を食べることがどうしてもやめられません。

アメリカに留学した際に、やはり日本の食文化とは異なっており、ステーキが日本でいう白米の感覚で食卓に登場します。

普段からウェイトトレーニングをしているため、トレーニング後は牛肉はもちろん、鳥や豚もたくさん食べていたので、全く気になりませんでした。

しかし、4日、5日とランチもディナーにもステーキが出てくると、食欲がわかなくなってくるんですよね。

日本では、肉もたくさん食べますが、味噌汁や漬物を意識することなく一緒に食べているので、肉がメインで食べている感覚というのはあまりないのかもしれません。
もちろんそこに、私の場合は納豆が入っています。

納豆は3歳からほぼ毎日食べ続けており、個人的なソウルフードなわけです。

そのため、ありとあらゆるスーパーをハシゴしたのですが納豆は見つからず、結局お寿司屋さんの店長に聞いてやっと売っているところを教えていただきました。

その時に食べた納豆の味は、生涯忘れないことでしょう。

「苦手だったのに得意になったエピソード」

54歳 男性のストーリー
たいていの人は子どものころから嫌いな食べ物があると思います。私の場合はトマト。でもある時そのトマトが全く問題なく食べられるようになったのです。
子どものころから生トマトが食べられなかった私。トマトスープも、トマトケチャップも、煮たトマトも、トマトジュースもOKなのに、なぜか生トマトだけがダメ。友人から「トマトジュースが飲めるなら絶対に生トマトも食べられる」と力説され、そーかなーとマインドコントロールされてひと口食べてみましたが、やっぱり気持ち悪くてダメ。
ところが、就職してからイタリアに旅行に行き、ランチに出てきたサラダのトマトを食べてみたら、なぜか美味しいと感じて食べることができました。さすがイタリアのトマトは違うと思ったものです。
その後日本に帰国して、恐る恐る日本のトマトを食べてみたら、なんと全く嫌な気持ちがせずに食べることができたのです。ふとしたきっかけってなんともスゴイですね。

「もっとも尊敬する人」

38歳 男性のストーリー
私の尊敬する人は先日引退してしまいましたが、プロ野球のイチロー選手です。
どんなところが尊敬しているのかと言うと、アメリカや日本の誰もが彼を認めているこの現状に満足せずに、まだまだ更に上を目指しているその態度がとても素敵だと思ったのです。普通、あそこまで活躍すれば、ある程度の年齢になって、引退して、優雅に一生を暮せば良いと思うのですが、あくまで現役にこだわり、尚且つ成長しようという態度は尊敬しかありません。
生き方、考え方、物事に対する姿勢、とにかく格好よくて素敵だと思います。あそこまで自分に厳しくできるところ、現状に満足せず、常に進化を求めているところが特に尊敬しています。
今、引退をしてしまいましたが、野球を離れてもイチロー自身は成長する意識は変わらないでしょう。
22歳 女性のストーリー
私が最も尊敬するのは母です
では、何故母が尊敬する人なのかお話ししましょう
母は、左手が発達せず左手が無い障がい者としてここ日本九州の大分に産まれ母の家族は、母の下に年の離れた妹1人、弟1人だったそうです母は、長女であった為かたくましく気が強い女性とし成長していき小中高を無事に卒業し、彼女は介護の専門学校へと通います
そして、いずれ宮崎産まれの父親と出会いを果たし専門学校を無事に卒業し、幾年日過ぎて母は、早くにして姉を子にむかえたといいます
母は、左手が無いのにも関わらず小さい赤ちゃんを懸命に育て姉に障がいが出ないか不安はあったといいますがそんな素振りは私達には微塵も伝わってきませんでした
ここからは、私が産まれてきてそして私が覚えてる話しでのお話しでございます
私は体重、2008㎏の未熟児で産まれ、今度こそ障がいを
覚悟したといいます、ですが私は産まれてすぐ保育器に入れられたものの元気と判断されるすぐに出されたといいます私は、その後も普通の子と遅くなりながらも着々と成長していきました
ここで母が言ってた一言を先に添えます
義手をするより素の方が動きやすいだってこれが私の1部だから
私がこの言葉を聞いたのは多分物凄く小さい頃だったと思います小さいながらにこの人は強いと感じました
ここからは、本当に私が母を尊敬するべきところへのお話しをしましょう
母は、私達にいつもワンピースや巾着、身に付けるあらゆるものを作ってくれました、そう母の特技は、普通の人でも難しい服飾やエコクラフトのバックを制作することでした
私も姉も小さい頃からお手伝いすることは、ありましたが母が障がいを持ってることを忘れるくらい何の気なしにやってのけるのです
ここまでお伝えしていませんでしたが母は主婦業である家事全般を全て行っていました
彼女は、私にとっても姉にとっても偉大で強く理想の母親像であります
母は、私達に言い続けたことがあります
無理はするな、強く居ようとするな、自分らしくあれそして、努力を怠るなさらに継続は力なりと
ここまで話しした通り母は障がいを持っています
障がいを悪いと言われるこのご時世障がいを気にしない私の母は、姉にも私にも常に平等であれと教えてくれた教材であり母が教師そのものでした
私には、大嫌いで大好きでこうは、なりたくないけど理想なんです矛盾してますがこれが私の母親像であり私の理想であり最も尊敬する人なんです
31歳 男性のストーリー
私がもっとも尊敬する人は中江藤樹さんです。
江戸時代の初期の頃に活躍なさった方で、近江の国(滋賀県)高島で生まれた方です。
下級武士だったため家族が貧しく、農業も営む両親の元に生まれますが、大洲(愛媛県)藩に出向いた祖父の付き人として高島から大洲に向かいます。
そこで、熱心に学問を学び後に陽明学者となります。
日本で唯一、聖人と呼ばれることでも有名です。正式には近江聖人といいます。
現代では、滋賀県の高島氏に中江藤樹記念館があり、当時中江藤樹さんが開いていた
寺小屋(日本の寺小屋の始まりを作ったとされています)の跡地を見学することもできます。中に入って当時の様子を伺うことも可能です。
中江藤樹さんの影響で後に活躍する熊沢蕃山の活躍にもつながります。


32歳 女性のストーリー
ジブリで色彩設定というお仕事をされていた、保田道世さんです。
色々のアニメーション制作会社で、仕上げという、アニメの原画に着彩していくお仕事を重ねながら、一つの作品全体の色合いを決めていく色彩設定というアニメで重要なポジションまで登りつめていかれました。
当時はまだまだ男社会、職人気質の世界のなかで、仕事で誇りと信念を貫き、新色をつくったり、絵の具の会社にかけあうなど、努力や追及を諦めなかった強さに心打たれます。
また、仕事だけでなく、恋愛やディスコに通うなど、自分らしく輝くことも大切にされており、同じ女性としてとても憧れています。
ジブリで専心されるようになってからも、色彩設定のお仕に磨きをかけていったことはもちろん、日本のアニメーションが永遠に続くことを強く望まれて、未来も見据えられていたことにも、胸が熱くなります。宮崎駿監督や鈴木プロデューサーへ、若いクリエイターのために社員化を勧めたり、海外への業務委託でなく社内作業を支持するなど、胸を張って役目を果たされ、自分も働く女性として、背中を追い続けていきたい方です。

「死ぬかと思った話」

56歳 女性のストーリー
8年前能古とです。東日本大震災。

忘れもいたしません。本当に津波を見て怖かった。

おかーさん今日私出掛けたくない。
娘の一言で私は救われた。

3月11日午後13時過ぎだった

私は娘がスチュワーデスになるために宮城県仙台の国際大学に見学に行くため気仙沼の南駅に切符を買いに行くはずだった。

税金の支払いもあるし、最初市役所にいってくるね。と私は娘にいった。

今日の空はおかーさん怖いよ。
長女の娘の可菜がいった。本当にいつもと違う空が悪魔のようにまるで、災害が起きるんじゃ。と言う予知も感じていました。

一生忘れることが出来なかった大地震。あなたは、山も家も飲み込んだ。

そして私たちの心もズタズタにした。
この恐ろしい怖さはなんだったんだろうか?

「わたしの周りの大恋愛」

34歳 女性のストーリー
友達がドイツ人の男性に一目ぼれし、結婚してドイツに移住しました。それまでは英語も全然喋れない子でしたが、たまたま初めて行った台湾旅行で、観光に来ていた彼に一目ぼれ。英語が喋れる友達に通訳してもらって、連絡先を交換しました。帰国してからは彼と話がしたいあまりにドイツ語を猛勉強して、ドイツ語がペラペラになりました。そして、覚えたドイツ語を武器に、彼に会いにドイツに行きました。そこで告白し、付き合うようになりました。しばらくはドイツと日本の遠距離恋愛になり、ドイツに行ったり日本に来てもらったりしていました。まさか自分が国際結婚するとは思っていなかったようだし、私もそうでした。今でも、英語は喋れないそうです。

「お金さえあればと感じた瞬間」

26歳 女性のストーリー
海外旅行先から日本に帰ろうとしたら、空港が台風の被害で水没してしまい、帰国予定日に代替え便がない場合帰れなくなるかもしれないと言われました。 
帰国したその日にライブに行く予定でどうしても行きたかったんです。もしも何日も帰国出来なかったらと思うと、恐怖で震えました。
現地のお金も残りわずか。海外ATMから引き出せるお金もなく友人と不安で励まし合いました。
結果的に予定日に日本に帰ることは出来ましたが、ライブには間に合わず、せっかくの海外アーティストのライブなのに…。フェリーなど手段を選ばずに帰れていればライブにも間に合ったかもしれないと思うと悔しいです。
また海外ではカードが一般的ですが屋台では現金のみの扱いで、持ち込んだ現金も少額だったため、もう少しあれば色々食べられたなぁと感じました。

「忘れられない夏の思い出」

40歳 女性のストーリー
高校生の夏休みにイギリスにホームステイに行った時の人生最大のモテ期だった体験を告白します。
当時私は女子校に通っていました。中学まで共学だったので、出会いがなく、恋バナがしたかったのでオーバーに軽いノリでした。
日本にいた頃は、クラスでも三番目くらいに人気がある方でした。幼稚園から顔見知りの女の子たちのグループにいたら、その子たちが目立ってモテるので、その効果にあやかっていたと思います。地方にいましたが、そのグループの女の子で東京のモデル事務所にスカウトされ所属した人もいるくらいでした。
ナンバーワンにならないけど、時々アプローチされるくらいで私には充分でした。
高校は女子校でも、朝の通学の電車のホームで一緒になる男子高生に一目惚れし、彼もかなり人気あったのに、初めての彼女になったこともありました。
イギリスでのホームステイ先は、ものすごく歓迎される感じではありませんでした。私の数日前にも、日本からの留学生が帰国したばかりでした。
私は女子校のノリで、英語力はなくても恋バナでホストファミリーの同年代の女子2人と盛り上がって仲良くなるつもりでしたが、2人ともそんなに恋愛に興味がないようでした。

ホームファミリーに夢を抱いていた私は、コミュニケーションをとることを諦めました。

そのかわり新しい恋愛の出会いを探そうとしましたがきっかけがありません。

ところが、現地の英会話スクールへの通学に使っていた20代男性のバスの運転手さんが、どうも私へ好意を持っていたらしく、ホームステイ中、私の友達たち10人位のバス代をずっと半額にしてくれました。

また、友人のホームファミリーの男の子が、私のことをものすごく気に入ってくれたらしく、熱烈なアプローチをしてきました。その男の子に関しては、友人のホームファミリーということで、流石に遠慮しました。

極めつけは、ロンドンで有名なミュージカルであるCatsを最前列で友人達と見ていたら、Catsに出ている俳優が上演中にボディタッチなどでアプローチしてきました。

Catsは、最前列で見ていると俳優と目が頻繁にあったり、演出上、俳優が私の座席の近くで静止していたりするのですが、その間ずっと見つめあったりしていました。

容姿に自信がある方は、日本の映画の舞台挨拶で前の方に座っていると、かなり有名な俳優さんとしばらく目を合わせるという体験ができるチャンスもあります。

「忘れられない先生の話」

23歳 男性のストーリー
小学6年生の1学期の始業式の校長先生の話です。校長先生は日本国内を鉄道で旅行することが好きで、移動中に車窓から富士山を眺める機会が多くあったようです。特に、車窓から見える綺麗な台形の富士山が、印象的だと話していました。しかし、あるとき旅行で普段あまり通らないルートの鉄道に乗っていたとき、車窓から富士山を眺める機会がありました。そのとき見た富士山は、綺麗な台形ではなく、中腹にコブのようなもの見えたそうです。これは、富士山が江戸時代に噴火した際に富士山の中腹にできた宝永山というものです。校長先生はこのとき、この宝永山を見つけることができたのは、富士山を普段見ない方向から見たためであり、あるものを色々な方向から見ることで、新しい発見をすることができるのだと感じたそうです。その経験を踏まえて、校長先生は生徒たちに物事を色々な方向から見ることができるようになってほしいと伝えました。この話は今でも強く印象に残っています。
36歳 女性のストーリー
 アメリカ人の英語教師の話です。50代の中年男性で英語のディスカッションクラスの先生でした。第一印象は、あまりフレンドリーではない先生でした。授業は、生徒が興味のあるニュース記事を各々持参し、皆で話し合います。
 ある日、私は「日本における児童虐待問題」についての記事を持参し、クラスで話し合いました。どうしたら解決できるかという意見を皆でシェアをしていた時、先生が「僕は、小さい時、父親から暴行を受けていたし、罵声も浴びせられていた。また父親や姉から性的虐待も受けていた。断片的に覚えている。何度も何度も死にたいと思った。」と話しました。その話を長々とされて、クラスメイト全員はドン引きしてしまいました。それを聞いた、私は胸糞悪い思いをしました。あまりにもショッキングな話にクラスメイト全員が、ディスカッションができなくなりました。レッスン後、クラス皆で「あの先生、大丈夫?」と話しました。
 その先生に対してダークな悪い印象を持った私は、先生が日頃から書いている詩をネット上で見つけました。その内容が「姉が父親から性的虐待をされているのを自分が覗き見している」というもの。身体がゾクゾクするような生々しい文章の表現で、気分が悪く、先生の奥深い心の闇を垣間見ました。それから私は、先生のクラスを取りたくなくなり、顔も思い出したくないくらい嫌いになりました。

「人生最大の失恋話」

55歳 男性のストーリー
学生時代の友人だった彼女。
お互い社会人になってからも忘れられず、思い切って告白したところ「私も貴方が好き」という思いもしなかった返事があり、恋人同士となりました。
恥かしながら自分にとっては初めての彼女で、若干の遠距離恋愛になりましたが、それでも週末は彼女の家の方にでかけたり、東京まで出てきてもらったりと交際を続けていました。
しかし、どこかで「学生時代の同級生」という思いがあったのか、次第に彼女に対してぞんざいな態度をとるようになってしまいました。
付き合いだしてから数年経ったある日、仕事で海外に2週間ほど行くことになりました。
順調に仕事をこなし、明日は帰国だという日に国際電話で彼女に電話をして「おみやげ何がいい?」と聞いたのですが、「たぶん受け取れない」という答えが返ってきました。
その意味もわからないまま日本に帰国し、彼女に電話したところ、共通の先輩と付き合うことになったから別れてほしいと告げられました。
友人の延長線のような付き合いが数年続くなか、彼女は結婚したいと思っていたそうです。
なのに一向に結婚の話が出ないことに悩んだ彼女は、私が海外に行っている間に先輩に相談し、そのまま恋仲になったのだそうです。
「貴方の奥さんになりたかった」
それが彼女の最後の言葉でした。

「これまでの人生で悟ったこと」

57歳 女性のストーリー
ふと気づくと、あっという間に「還暦」近い年齢となってしまった。頭の中身はまだまだ高校生並みで、大病もせずに健康で楽しい毎日を過ごせているのは幸せな事だと思う。
とはいえ、これだけ年齢を重ねるとそれなりに「苦しい経験」もしてきたように思う。私がこの年齢まで生きてきて悟ったことは、「世の中や周りの人間は、たいてい自分の思う通りにはいかない。明日は何が起こるか分からない。だから自分自身の人生を生きよう」と言うことである。
いくつか実例を挙げると、勤務先で真面目に働いていても、社内の経済事情からリストラ宣告を受けてしまい職を失った。また、東日本大震災という思いもよらぬ自然災害に見舞われ、ライフラインがやられて生活に不自由を来たした事もあった。親が急に倒れて要介護状態になった事などもあった。
そんな中で私は「とりあえず今日の事だけを考えよう。明日のことは明日考えればいい」と自分自身に言い聞かせてきた。それは、様々な経験を経た上での、自分の信条ともなっている。

32歳 女性のストーリー
20代半ばでオーストラリアに渡り2年ほど生活していました。
日本での生活がほとほと嫌になり、何もかもから逃げ出して楽になりたかったのです。
でも現地での生活も楽ではなく、就労制限のあるビザの為就職活動もうまくいかず、食生活が変わったため体調もそんなに良くなく、更に話の合う友人がなかなかできずどんどん孤独になっていきました。
でも日本での孤独な生活とは違い、オーストラリア自体のゆるくて開放的な雰囲気は私に合っていたようで、自分を見つめ直すいい機会だと思いとことん自分と対話しました。
なぜ何もかも嫌になったのか、自分は何が嫌いで何が好きなのか、どんな人間になりたいのか。毎日毎日。
そして現地の人間たちとも少しずつふれあい、色々な生活スタイルを見ているうちに、この世界には「こうでなきゃいけない」ものやことなんて、ほんのわずかしかないのだと悟りました。
今自分がとっている色々な行動や思考は、たまたまこの時代に生まれて常識という名の偏見に晒されて培われてきたものに過ぎないのだと。
それに気づいてからは一気に楽になり、逃げてきたはずの日本での生活も別の視点から見られるようになりました。
結果的にはまた日本に戻り、かつての自分とは違い必要以上に追い込まず、人生を身軽に、前向きに捉えて生きられるようになっています。

「どうしても許せないこと」

43歳 女性のストーリー
ごく最近で日本全国で有名な事件、京アニ放火事件です。
自分の近所で起こったことというのが大きですが、正直自分に直接関係がない人が起こした事件でここまで憤りを感じたのは人生で初めてと言えます。
ニュースになる前、自宅にいるとなんだか煙たい漢字がして外を見ました。するとモクモクと煙があがっており、救急車、消防車、パトカー、ヘリコプターとあらゆる緊急車両の音がしていました。これはただごとではないと思っていた矢先、ニュースで京アニが火事だと。しかも犯人らしき人物が確保と出ていました。そのうち時間が立つにつれて被害者がどんどん増えていく。近所でそんなふうに沢山の人が亡くなり、しかも放火。亡くなった方々は殆どの方が若く、自分の夢を叶えるために一生懸命がんばっていたなんの落ち度もない方達。怪我をした方も傷は癒えても心にはありえない傷が残ります。犯人は身勝手な理由で亡くなった方達だけでなくなんとか助かった方達の人生もめちゃくちゃにしました。
今でも焼け焦げた建物を見ると心が締め付けられます。
あの犯人は絶対に助かって苦しい思いをしなければいけない。
絶対に許せません。

「人生が変わった出来事」

49歳 女性のストーリー
日本で大手企業に勤務していましたが、思い切って辞め、海外に移住した事です。日本にいた時の私は、何に対しても文句を言っていた様に思います。私は発展途上国と言われる国に住んでいますが、日本の様に恵まれた国に生まれ育ってきて何で文句ばかり言っていたんだろう?と今になって思います。
お墓参りはともかく、日本にいた時は先祖の仏壇に手を合わせる事も無く、スイッチを押せば電気が点いたり、蛇口をひねれば水が出る、毎日のご飯があるのも当たり前と思って生きてきました。
ですが、この国ではこれらの事が当たり前ではないのです。
交通事情にしても、日本に帰ると、こんな便利な事ある?って思います。
この様な毎日を過ごして行く中で、自分の身の回りにある物に感謝する様になり、物を大切にする気持ちを持ち、今日も一日無事に過ごせたと先祖に感謝する様になりました。
自分としては人間として大きく変わり成長したと思っています。
52歳 男性のストーリー
なんと言っても東日本大震災でしょう。テレビで見た家や、田畑などが黒い波に飲み込まれていくシーンは頭から離れません。すべての財産や生命をのみこす自然災害の恐ろしさに、働くとは何か?家を建てたり貯金をしたりする意味に絶望を感じました。当時運転手をしていましたが、テレビで見た橋の所でのトラック2台が絡む接触事故らしきせいでその道が通告止めになっており、事故処理の警察や、運転手が結果的に助かり、そいつらのせいでそのみちにたどりつけずなくなった方を思うと言葉になりません。せめて動けそうなトラックを片方に寄せて通れるようにしておけば何十もの命がすくわれたのではないか、と思い同業がいやになりました。とらッカスは消えろ。
19歳 女性のストーリー
18歳の時に初めて海外一人旅をしたときに、私の人生は変わったと実感しました。
行先はベトナムのホーチミンです。私は世界の食べ物に興味があり、海外に行きたいと思っていました。
 しかし、私は人より好き嫌いが多かったのです。とりあえず日本のものはすべて食べれるように「好き嫌いなくそうキャンペーン」を一人で細々と実施していました。実施してから1年後には、目の前に出されたものすべて食べられるようになったのです。
その後、私は海外に飛び出し、驚いたことがありました。なんと。私は現地の食べ物だけでなく、カエルや動物の脳みそなどゲテモノまで食べれるようになっていたのです。
 「好き嫌いなくそうキャンペーン」のおかげで、目の前のものはとりあえず口に入れてみよう。そこから好きか嫌いか判断したらいい。という感覚を身に着けることができたのです。
47歳 女性のストーリー
2001年のアメリカ同時多発テロ。
テレビで最初、ビルに飛行機がぶつかるのを見て、現実の出来事とは思えず、まるで映画を見ているかのような錯覚を起こしました。
しかも、またもう一機がビルにぶつかるのを見て、コレはただ事ではない事を悟り、この先、どうなってゆくのか?と恐怖でした。
それまで、海外旅行に行く機会が多かったのですが、これを機に、海外とは縁遠くなりましたが、日本国内旅行にシフトを変え、日本にも、たくさん素晴らしい場所があるんだと巡るようになりましたし、人生、明日は何が起こるか分からないなら、好きな事をして生きたい!と強く思うようになり、やりたい事や行きたい所へ積極的に出掛けるようになりました。おかげで、楽しく人生が過ごせています。

「修学旅行の思い出」

23歳 女性のストーリー
高校の時の修学旅行がマレーシアでした。マレーシアの学校に通っている子たちと英語で交流するというプログラムがありましたが、とても驚いたのは彼女たちの人の暖かさです。
2人ペアで校内を案内してもらいましたが、ペアの子はプレゼントを用意してくれていました。私がもらったのは頭に巻くスカーフで、きっとお寺?に観光で行くだろうと思ってくれたのか用意してくれてました。私がもし逆の立場だったらそこまで考えられないなと思い、すごく感動しました。そして別れ際には最後まで悲しそうにみんなで見送りをしてくれ、バスのすぐ傍までいてくれました。そういうのが当たり前にできる文化ってすごくいいなと思いました。ちなみに、ペアの子に住所を教えてもらったので日本に帰ってからプレゼントを贈りましたが届いたのかは未だに不明です。
64歳 男性のストーリー
修学旅行もう40年以上前のことになります、時がたつのは速いものですね。当時は汽車での修学旅行がほとんどだったのですが、そんな中一回だけ乗ることが出来たのが、当時は私たちの乗ることが出来なかった新幹線に乗ることが出来たのです。日本の技術のすごさを感じながら、最後は寝台車で帰路に就いたのを、思い出しました。
それと当時は宿泊は旅館で,他校と一緒になることは当たり前の時代、よくケンカになりそうになりましたが、私たちの学校の一番でかいのが表れて、けんかにならずに済んだことが良くありました、そいつは大きいだけで,ケンカをするようなやつではなかったのですが、ただ大きいことはよいことだったのですね。
時代は変わり、今は海外へ普通に行く時代になっています。修学旅行もお金がかかる時代になってきたようですね、親は大変ですね。
22歳 女性のストーリー
私の学年が、というべきなのか、私の学校の修学旅行の時期が、というべきなのか、小中高とどの修学旅行も話題には事欠きません。
小学校のときには新型インフルエンザ(豚インフル、だったと記憶)の流行によって、5月に予定されていた修学旅行が実施さえ危ぶまれる事態に。結局9月に延期して行ったものの、ハラハラした記憶があります。
中学のときには、生徒の希望で東京への修学旅行が決定。しかし、1年生3月の時に東日本大震災・原発事故が発生して、行き先を例年通りの沖縄へ変更。幻の東京計画となりました。
高校では行き・旅行中は何もなく北海道を満喫したものの、帰りにハラハラさせられました。雨風の影響で地元空港への着陸に手間取り、東京へのとんぼ返りも予告されてしまう事態に。無事に着陸したものの、「しばらく飛行機はいいね」と友人で話しました。

「忘れられない夏休み」

41歳 男性のストーリー
小2の夏休み、おばあちゃんの家へ行って、従兄弟達と会って遊んでいました。私は、おばあちゃんが履いていた普通のサンダルが何となく好きで従兄弟達と外で遊びに行く時に、必ずそのサンダルを履いて遊んでいました。おばあちゃんの家は、日本の名水百選などにも選ばれる綺麗で美味しい水が流れている土地で、川の側溝も、都会にはなかなか無い幅広さでした。
僕と従兄弟は、公園でゴムボールとプラスチックのバットで野球をして遊んでいた時に、僕が打ったボールが公園の外の道路まで飛んで行きました。
慌てて、従兄弟達と走って取りに行った時に、小2の自分にはまだサイズが大きいおばあちゃんのサンダルが脱げて側溝に落ちてしまいました。おばあちゃんのサンダルはゆっくりと流されて行きました。おばあちゃんのサンダルを失くしてしまったら大変だと思った私は、側溝に降りて、川の流れに逆らいながらサンダルを追いかけました。その側溝は、上部にコンクリートで出来た棒状の仕切りが等間隔に取り付けられていて、自分は、それを避けながら追いかけていたんですが、サンダルを必死で追いかけるうちに、仕切りに頭を何度かぶつけました。
痛いなと思いながらも、サンダルを取る事しか頭に無い自分は、気にせず追いかけましたが、どんどんサンダルは遠ざかって行き、諦め始めた時、上から見ていた1つ上の従兄弟が私の頭を指差し「血が出てるよ」と言いました。額に手を当てると、ドロっとした血が手に付いていました。驚いた自分は、泣きながら側溝から出て、道で号泣。すると近くでバトミントンをしていた中学生くらいのお姉さんが、血を流して泣いている自分を見て、私を抱えながら、従兄弟の誘導でおばあちゃんの家まで走って連れて行ってくれました。その後、親族は大慌てで、病院へ連れて行き、結果、頭部を7針縫うケガを負いました。
37歳 女性のストーリー
高校生のときに、夏休みだけホテルのベッドメイキングのバイトをしました。
その時にお昼ゴハン食べるのに廊下で食べるしかなくて、一人で外に買いに行ったら小さな喫茶店を見つけてそこのオーナーの息子とひと夏の経験をしました。
始めは、ただご飯を食べに行くだけだったのですが、話が弾んで一度カラオケに行きました。その時にキスをされ、意識仕出しました。まだ高校生だった私はハーフのキレイ目の男の子に恋をしてしまいました。外国人から挨拶された程度でしたが、それからも毎日毎日喫茶店に通い、バイト最後の日に好きだと伝えると夏休み期間しか日本にいなくて、帰らないといけないと言われました。手紙書いてねと言われ2回書きました。一度会いたいと返事をくれましたがそれっきりです。
もう20年経ちましたが会えるなら今でも会いたいです。
44歳 女性のストーリー
それは、次男が幼少期に、先定性の生まれつきのずがの病気の為に、一回目の手術、約7〜8時間かかり、無事に終わり検査通院しながら、2回目の手術3〜4時間かかり、無事に終了しました。主人は海外勤務中でしたので、合間に、日本に帰国した時に、次男の病院に、長男(小3)とお見舞いに来てくれました。2回目の手術が無事に終わり、元気になった、あの夏休みに家族で、念願のディズニーランドに行く事が出来ました。大変な手術を2回も頑張った、次男・・父親が海外勤務中でしたので、留守番を祖父母と共に支えてくれた長男。家族の絆と共に、大好きな、ミッキーマウスに会えた、あの日の夏休み・・・ミッキーマウスの笑顔と共に、長男、次男の心に、いつまでも虹色に輝く橋となり、未来へと響いて行く事と思います。

「奇跡だと思った話」

24歳 女性のストーリー
今から5年前、韓国に住む祖父が亡くなりました。
私は日本生まれ日本育ちで、当時大学生でした。幼少の頃から、長期休みの度に祖父の家で過ごし、優しくて聡明な祖父が大好きでした。高校の時は、バイトやライブなど自分の趣味に明け暮れ、会う機会がかなり減りましたが、大学生なると、祖父の体調が悪くなったので、休みの度に韓国へ訪れるようになりました。大学2回生の時、冬休みは祖父と一緒に過ごしていたのですが、年明けに祖父が意識不明で集中治療室での入院となりました。春休みになり、私が病院に到着した途端、3ヶ月間意識不明だった祖父が目を開き、私の顔を見て「可愛い孫だ」と口にしたのです。滞在中意識も戻り、毎日見舞いに行っていった親戚たちは驚き、これで回復する!と喜んでいた矢先、私が日本に到着して数分後に亡くなりました。祖父は私が訪れる日を、そして日本に安全に到着する日を、待ってくれていたのだと思っています。

「女って本当に恐いと思った瞬間」

32歳 女性のストーリー
仲良かった友達の結婚式に行った時
その友達の結婚式の席で
仲良かった友達と同じ席に座った。
そして、結婚をする仲よかった子の話しを皆んなで話をした時
結婚相手含め同時に4人と交際しているのが発覚した。
彼女にとって、
一番彼女に条件が良い男で、
相手の収入の高く、
今後も出世に伸び代がある玉の輿の相手を選んで結婚したこと。
また、結婚相手に買ってもらっていた婚約指輪が、とんでもない金額になる日本には売ってない指輪で、
ダイヤがすごい大きいく見せびらかすようにつけていたこと。
その結婚相手以外にも、結構貢いでもらっていた話を聞き怖い女だなと思った。
あまり感情的には好きとか嫌いとかない相手と、挙式して結婚相手とは別に好きな人と続いている話を聞いた。
まだ結婚してからも、結婚する相手とは別の好きな彼氏がいると聞かされた時。、

「家族に一番感謝したこと」

27歳 女性のストーリー
私が家族に感謝したこと。それは周りは大反対していたのに、留学に行かせてくれたことです。元々海外へ興味があった私は、大学の時に留学をしたいと決めていました。しかし両親はどんな反応をするだろう…そう思った私は恐る恐る親へその旨を伝えました。
当時祖父母と一緒に住んでいたので、祖父母は猛反対。海外へいくなんて危ない!の一点張りでした。するとどこからか情報が漏れたのか、身内全体にその話が広がり、身内からも責められることになりました。あまりの責められ具合に私も心が折れそうになっていた矢先の事です。あまりにも酷い責められ方をしている私を見た父が、身内に喝をいれました。「娘の人生なんだ。周りが騒ぎ立てることじゃない」そう言ってくれました。普段温厚な父が声を大にして言っている姿を見てびっくりしました。(あとから母親に聞いた話ですが、初めから両親は留学に賛成だったようです)
それから事は淡々と進み、無事に留学し、今はもう日本に帰国し就職しています。あの時私の人生だからといって、私の意志を尊重させてくれた両親に感謝しています。

「仕事での大失敗」

45歳 男性のストーリー
2週間の海外出張に行った時に、現地に着いて2日目に持っている現金を全て落としてしまいました。
出張先はクレジットカード決済ができないような地域であったため、生活が出来なくなってしまいました。
出張先から一時的に現金を借り、すぐに日本から送金してもらうことで現地て何とか不自由なく過ごすことは出来ましたが、大きく2つダメージを受けた点がありました。
1つは落とした現金は2週間分の食費や生活費に加えてホテル代なども含まれていたため、額が大きかったことで大金を失ったことです。
2つめは、出張先から現金を借りたことにより職場の人達に現金を落としたことがバレてしまい、同僚から冷やかしを受け続けることになったり、上司の信頼を失ってしまったことです。

「一番ひどい友達からの裏切り」

33歳 女性のストーリー
小学校からの幼なじみで、1番の親友。
中学生になってから、私への執着が始まり、リストカットや、自殺未遂をするように。私は、彼女から逃げたかったのもあり、高校生になって、留学を考えるようになった。少し、距離を置けば、きっと執着心は、なくなると思ったから。
高校を卒業して、私はニューヨークへ語学留学した。最初のうちは、毎日メールと電話のやりとりがあったが、それも少しずつ減っていき、一年後には、一ヶ月に一回程度連絡を取る仲になって、私は、ほっとしていた。良い関係が築けていると思っていた。
ある日、母からの突然の電話。彼女が、事故で亡くなったと。信じる事ができなかった。
次の日のフライトで、私は日本へ帰った。司法解剖があった為、その二日後が葬式だった。
事故の原因を聞くと、彼女は、周りに内緒で、デリヘルの仕事をしていた。その派遣先へ向かう途中の高速道路で、タイヤがパンクし、車が転倒し、即死だったらしい。
彼女は、親友だと思っていたけど、私に嘘ばかりついていたようだ。
彼女の死も、彼女の嘘も、全てが裏切られたように感じました。
34歳 男性のストーリー
一緒に起業した友達からの裏切り話です。
海外で事業を興し、軌道に乗り始め、いざこれからというタイミングでした。

ある日、友人から会社を辞めると連絡がありました。私は東南アジア、彼は日本を担当していました。
突然のことに困惑しましたが、すぐに帰国することもできませんでした。
何度連絡をしても一向に返信はありませんでした。
また、それだけではなく、会社の資産から彼が勝手に決めた彼の取り分を無断で奪われてしまったのです。
会社の経営、目先の仕事、関係各所への説明に終われ、毎日が地獄のようでした。
そんな私の状況を見かねて、創業当初からお世話になっている方が助け舟を出して下さいました。
そのおかげで、危機を乗り越え、今は元通りに経営ができています。

が、未だに彼とは連絡が取れません。

「この職業で良かったなと思う瞬間」

46歳 女性のストーリー
私の仕事は、米軍基地内で働く事務員です。学生のころからずっと英語に触れる仕事に就きたくて何年かこの職に応募しながら他の仕事をしていました。夢がかない面接までたどり着き合格。それ以来、アメリカ人の上司や同僚たちと楽しく仕事をしています。上司によっては、文化の違いからイライラさせられることもありますが、やはり好きな仕事についているということからあまり負担に感じません。好きな仕事をすることの大事さを学びました。また、日本ではない文化内での仕事なので、朝ご飯を口にしながらパソコンで仕事。音楽を聴きながら仕事。職場にあるTVは常にONなのでそれを見ながら仕事。日本では考えきれない仕事の仕方だと思います。そういう事を思うと今の仕事で良かったなと思います。

「一番おいしかった食べ物」

31歳 女性のストーリー
新婚旅行でハワイに行きました。ずっと行きたくて行きたくて、念願のハワイに、行く前からワクワクしていました。そして、行く前から分厚いステーキが食べられるお店やガーリックシュリンプが食べられるお店、大きなハンバーガーが食べられるお店などを調べていました。

ハワイについてからは、毎日夢だったご馳走様を食べまくりました。ステーキ、ハンバーガー、ピザ、ケーキなど。どれも豪勢で、なかなか食べられないような贅沢ばかりしていました。

そんな楽しかったハワイも最終日になり、最後の夜は疲れてしまいスーパーに入っているテイクアウトのお店で、適当にお弁当を買い、ホテルで食べることにしました。そして、いざ食べてみると驚くほど美味しく、子供も旦那も貪り食うように食べたんです。それこそハワイで食べた中で1番!と間違いなく言えるものでした。

そのお弁当のパッケージを見てみると「テリヤキチキン 500円」でした。あんなに贅沢したのに、1番美味しいのは日本味の500円でした。
48歳 女性のストーリー
一生忘れられないハマチ。

10代の頃、オックスフォードに留学していました。
毎日の食事は学校のダイニングでバイキング形式で好きなだけ食べられる洋食。
初めのうちは喜んで食べていましたが、やはりそのうち飽きてきて、日本食が恋しくなり始めました。

母から時々届く荷物には、お煎餅・梅干し・レトルト味噌汁等と手紙。
大抵のものは送れますが、どうしても送れないものが生もの。
段々と生ものへの想いが強くなり、ある日意を決してロンドンの日本食屋さんを調べて初めてバスで一人旅をしました。
英語もまだ慣れない上に、土地勘もなく、当時は紙の地図を頼るしかないので大変な冒険でした。

迷いに迷ってやっと日本食屋さんに到着。
久しぶりの日本語、日本食(感動)。
その時注文した品が、シンプルにハマチのお刺身・味噌汁・白飯。
ハマチはたった5切で日本円で約3,500円・・・学生の私のお小遣いでは少しキツかったです。
白飯にたっぷりと醤油を含ませたハマチを乗せて大口で食べた時のあの味が忘れられません。
自分の中の日本人遺伝子をあの時ほど強く感じたことはありません。

今ではいつでも食べられますが、ハマチを見るとあの時の記憶が鮮明に蘇ります。
25歳 女性のストーリー
私が、“この世で一番おいしかった”と思えたのは、海外旅行後に食べる日本食です。具体的な食べ物でなくてすみません…。
私は一年に何度も海外旅行に行くタイプではないのですが、以前シンガポールに5日間ほど旅行に行きました。シンガポールは、多国籍な国で、食事もマレー系、中華系、インド系と様々なアジア料理が揃っています。もちろん、観光産業が盛んなので、多国籍ウケするアメリカンなカフェはもちろん、日本食レストランもあるのですが、『せっかく海外にいるのだから、現地のごはんを楽しみたい心』が発動し、日本食は一切口にしませんでした。
でも、やっぱり長年慣れ親しんだ味というのは、すぐに恋しくなるものですね。もちろん現地のご飯もとっても美味しかったのですが、帰りの飛行機に乗るころには味噌汁が飲みたくて飲みたくて…。
日本に着いた頃には夜遅く、もう大半のお店が閉まっていましたが、味噌汁とお米が食べたい一切で有名牛丼チェーン店に駆け込みました。
『ああ、なんて美味しいんだろう、日本に生まれて良かった』と感じた体験でした。
24歳 女性のストーリー
私は、国内外問わず旅行が好きです。
看護師という仕事柄、頻繁にまとまった休みを取るのは難しいですが、それでも一年に数回は一週間くらいの長いお休みを頂けるので、そのお休みを利用してよく旅行に行きます。
結論から言うと、私の一番おいしかった食べ物は、ある特定の食べ物ではなく、『旅行から帰ってきた後に食べる、普段食べているもの』。
海外旅行なら帰ってきた後に食べる日本食、国内旅行なら帰ってきた後に食べるおうちごはん。これが、いつもたまらなく美味しく感じる幸せな時間です。もちろん、旅行先では普段食べられない美味しい食べ物はたくさんあります。でも、帰ってきたときの『あ〜!いつものこれこれ!!』って噛みしめながら食べるご飯にはかなわないのです。
21歳 女性のストーリー
 小学5年生の宿泊学習・臨海学校で日本海へ行った時のこと。入り江の小さな岩の裏にバフンウニが生息していて、採ってそのまま食べることができるということだったので、同級生たちと探しに出かけた。
 小さなバフンウニを見つけて、みんなで一口分、いや一舐め分を分け合った。もともとウニは好きだったが、採ったその場で食べた新鮮なそのウニは、それまで見たことないほど鮮やかなオレンジ色をしていた。味は、一舐めしただけでさえとても濃厚で、ウニそれ特有の臭みなど全くなく、むしろ甘味を感じるほどだった。
 それ以来、今でもそのバフンウニを上回るウニには出会ったことがない。またいつかもう一度、あの新鮮な採れたてのウニを食べてみたい。

「結婚っていいなと思った瞬間」

46歳 女性のストーリー
いざという時、そばにいてくれる存在がいるということに、結婚の良さを感じます。
東日本大震災で余震が続いて心身ともに疲れている時に、家でひとりだったら心細さを感じますが、夫がいるだけで、なんだか心強さを感じました。
「このマンションは耐震性がすぐれているから大丈夫」、「スーパーで品薄が続いてるから、食事は手抜きでも適当でもいいよ。食べられるだけで感謝しないと。」など、冷静かつ客観的な理由を述べつつ、こちらを気遣う言葉をかけてくれて優しさを感じました。私は不安で感情的になっていたので、なぐさめようとしてくれていたのだと思います。
普段はひとりでも大丈夫だと思っていても、窮地に立たされた時や弱っている時は、そばに誰かいてくれるだけで救われた気持ちになるので、結婚っていいなと思いました。
24歳 女性のストーリー
去年の秋に4年おつきあいしている彼と結婚をしました。年も違えば、生まれた国も文化も言葉も何もかも一致することがない凸凹国際結婚カップルです。4年一緒にいたとはいえ、ほとんど一緒にいたことがなくトータルで換算しても1年いくかいかないかぐらいです。しかし、毎日欠かさずメッセージのやり取りをし、時には電話をし、手紙やプレゼントを贈りあったり、長期休みがあれば必ず会いに行っていました。
 そんな中、やはり不安はたくさんありました。浮気していないかな、嫌いになっていないかななど。しかしそんな不安を吹き飛ばしてくれたのは彼自身でした。
 そして私たちは去年の頭ごろから同棲生活を始め、夏にプロポーズしてもらい、秋に結婚。日本ではない地での暮らし、家族や親友に会える距離にいない、言葉が通じない国での生活、一人暮らしの経験がなく不安いっぱいの家事、好きな人とはいえ赤の他人同士の同居、、、初めは不安いっぱいで、ストレスもあり、常にホームシック状態でした。喧嘩もしたことがなかったけれど増えてきました。
 しかし、それは今まで喧嘩したりストレスを感じるほど一緒に過ごすことができなかったからです。朝目覚めると必ず横に好きな人がいて、不慣れな手つきで家事をして、完璧じゃなくても必ず感謝の言葉をくれ、改めて「結婚っていいな」と感じるようになりました。これからもそう思える瞬間がたくさんあるように結婚生活を送りたいです。

「独身っていいなと思った瞬間」

39歳 女性のストーリー
友人や妹、周囲の女性たちが結婚し妊娠出産を経て、自分の時間がなくなっただけでなく、経済的にも困窮してしまったり、義実家、とくに姑との問題に巻き込まれて苦しんでいる姿、さらには育児に追われているのを目の当たりにしたとき、私は独身でよかったなと安堵することが多々あります。とくに、私は専業主婦の座を勝ち取って、永久就職したのと高をくくっていた女友だちが、旦那の突然の失業でパートを掛け持ちしなければならなくなったのを見ていると、なんだか憐れに思えてしまいました。人任せで生きていけるほど世の中甘くはありません。それにこれからの日本、決して希望が持てる要素がないのに、そんなところに子供を産み落としたことに対する義務感や責任を感じてほしい、そしてその責務を全うしてもらいたいといった気持ちでいっぱいになります。ややこしい問題もなく、自分一人が生きていければいいだけの自由な独身の私の選択は、ある意味では大正解だったのではないかと思う今日このごろです。
38歳 女性のストーリー
 韓国の男友達2人が平日に日本に来た時のこと。事前に来ることは知らされてはいたものの、平日だったということと、彼ら宿泊する場所が私の住んでいるところからはやや距離があるところだったため、私は合うことができないと断っていました。
 しかし、来日当日、彼らから宿泊代も出すから一緒に飲みに行きたいと猛アプローチされ、結果、夜に彼らの泊まる土地まで電車で出向き、翌日も仕事は体調不良と言い張ってズル休みをしました。そして、彼らと一緒に観光地を巡り、ランチももちろんご馳走して頂いて楽しい時間を過ごせました。
 こんな無茶な行動は独身で、かつ一人暮らしだからできることなので、制限の無い自由な生活は良いものだとその時、独身の身を喜ばしく思いました。
38歳 女性のストーリー
韓国在中の男友達2人が平日、日本に遊びに行くという連絡が入ったのですが、平日ということもあり、また、彼らの宿泊地が私の住んでいるところよりも遠くいるということもあり、私は仕事もあるし無理だと断っていました。
 しかし、彼らが来日した当日、連絡が再度入り、どうしても一緒に遊びたいから、交通費も宿泊費も出すので来てほしいとゴリ押しされ、とうとう根負けした私は、仕事を終え、帰宅してから彼らの宿泊する地へと足を運びました。その日の夜は深夜まで飲み明かし、また、翌日、私は体調不良と言ってズル休みをし、ガイド役として彼らを観光地へ連れ出し、また、昼からアルコールを煽りました。もちろん、その飲食代も全て彼らが支払ってくれ、至れり尽くせりの時間を過ごすことが出来ました。
 彼らも私の行動にすっかり喜んでくれたようで、また仲が深まりました。これも、独身だからこそできるのであって、自由がきく生活っていいなとかみしめた体験です。

「一番の苦労話」

41歳 男性のストーリー
一番の苦労話ですが、、

私は、株式投資の中での信用取引です。
私の財テクといいますか、資産運用は、初めは積立投資信託でゆるーく開始していました。

先進国ファンド 新興国ファンド 日本株ファンドなど分散し始めました。
10年近く積み立ており、ボチボチ含み益も増えていきました。

株式投資も傍らでアベノミクス効果もありちまちまどころか、投資信託なんかしょぼいやと思いつつも利益を積み上げていく事になりました、、が!

つい、欲が出、信用取引でもっともっと稼いでやれ!と思うに至り、次々と売買するも、利益もあがるが、コケた時にはエゲツない損を被り、、また、投資信託や現金を担保に取引できるものだから、、とある銘柄を買った時に、ヒドイIRが発表され、それまであった10年間積み上げてきた投資信託の利益、株で得た利益がすっ飛びました。
しかも追証まで発生させ、投資信託の保有資産も削ってしまいました。

欲張りから来た失敗です。じっくりいくが自分にはあっていたのでしょうが、見失っていました。
オオゴケした時は、ガクッと膝をついて、冷や汗が出たものです。精神衛生面でもよろしくなく、、苦労話ともいえるでしょうか、まともに仕事するが一番だ、とも感じています。

「そういえば昔夢見ていたこと」

54歳 男性のストーリー
私の「そういえば昔夢見ていたこと」は、海辺のそばにある町の公務員になって、サーフィンをしながらのんびりと人生を過ごすことです。
私は大阪の在住ですが、大学は関東にある某マンモス大学に通っていました。その大学を受験し入学したのは、希望していた学部が神奈川県の藤沢市にあり、電車でもすぐに江の島や鵠沼など、日本でも有数のサーフスポットに行けるからです。大阪では、和歌山か徳島など遠方に行かないとサーフスポットはありませんので、当時サーファーを気取っていた私にとっては藤沢は憧れの街でした。
まぐれでその大学に入学し、勉強もそこそこにサーフィンとバイトに明け暮れる毎日でした。とても楽しかった日々です。そんな中、いよいよ卒業となり、結局は親の勧めもあり、大阪の実家に戻って地元の企業に勤めることになりました。
本当は、藤沢市かあるいはどこかサーフィンの出来る海岸のある街の公務員にでもなって、自然を満喫しながら、そこそこのんびりと生活したかったのですが、親にもそんなことは言えず、結局諦めてしまいました。
現在は、サーフィンをする余裕もなく、子育てと家のローンに追われ、満員電車に毎日揺られて会社に通う50代の中年サラリーマンになってしまいました。
57歳 女性のストーリー
 フランスの古い俳優ピエール・フレネーが大好きで、調べると日本には入ってきていない出演映画がたくさんあり、そのためにパリに3か月くらい滞在して「シネマテーク・フランセーズ」で見まくろうというのが夢でした。フランスは芸術を大切にする国でほんとに古い映画でもシネマテーク・フランセーズに行けば見られると小林信彦という作家が書いていたので、自分も行きたいと考えたのです。そのためにOLのときのお給料を貯金していました。奨学金の返済もあったので月の給料の9割は貯金と借金返済で消え、洋服も新調せず、交通費も貯金に回そうと自転車で通勤していました。
 その夢が夢のまま終わったのは結婚したからです。さすがに夫を置いてフランスへ行くのは無理でしたね。今もその頃フランスから取り寄せた本などを眺めて、時々彼のことを思っています。彼のおかげでフランス近代演劇・映画に詳しくなることができました。フランスにこそ行けませんでしたが知力を尽くして調べ物をした経験はのちの人生に生きています。
23歳 男性のストーリー
そう言えば、昔(少年時代)はよく夢を見ていた、ワールドカップが終わればサッカー選手になろうと思ったし、日本シリーズの時期はプロ野球選手になりたいと思った。そんな影響をもろに受けていた少年時代に特に夢を見ていたのが、仮面ライダーだ。世界の平和のため?に自らの命を省みず、悪の組織に立ち向かっていくヒーローだ。特に俺が好きなところは普段は普通に生活しているのに、悪者が現れたときは即座に戦いへ向かう。戦いが終われば、何もなかったかのように普段の生活へ戻る。なんて健気なんだ。子供心に感銘を受けたものである。サラリーマンになった今、俺は仮面ライダーにはなれなかったが、大事な人を守るためジムへ週に2回通っている。しかし、ジムに通っていることについては基本的に他人には話しをしない。これは、ある意味仮面ライダーなのではないか?笑
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