"エピソード" に関するエピソード

「これまでで一番驚いた話」

38歳 女性のストーリー
以前の勤め先の同期が社内結婚したことです。
その同期は同期の中で一番若誰が見てもかわいかったです。さらに、性格もよくて仕事もできて誰もが羨むパーフェクトな女性でした。入社してすぐに一個上の先輩と付き合い始めました。その先輩もやはりその代では一番スラッとしていて誰が見てもイケメンでした。美男美女で本当にお似合いでした。5年は付き合ったと思います。先輩の方がかなり太ってきて彼女から指摘されても生活を改めず、他にもたくさん理由があったとは思いますが破局しました。
それから数年後、他の同期からその同期が結婚するという話を聞きました。相手を聞いて仰天しました。同じ会社の20歳上の小太りの先輩でした(イケメンではない)。その先輩はバツイチで前の奥さんから浮気されてそれを追及することもなく離婚したというエピソードは社内でも有名でした。仕事ができるわけでもなく、遅刻して社外に迷惑をかけたというエピソードもあり、正直ダメ男のイメージでした。
同期は、両親からももっとふさわしい人がいるんじゃないかと反対されたにもかかわらず結婚しました。
相手を聞いた時の衝撃が忘れられません。

「わたしの周りで一番お金持ちの人」

26歳 女性のストーリー
私の大学時代の友人に超がつくほどお金持ちの子がいました。身につけているものはほとんど全てがブランド物。カバンも何個もブランドのものを持っており、携帯ケースも1個1万はするであろうものを1ヶ月と言わずに変えていました。社会人になった今でも交流があり3ヶ月に1回の頻度で会っていますが、やはり毎回携帯ケースも変わっており、ストックも常に5個ほどあるようです。もちろん携帯も常に最新のiphoneを持っています。そんな彼女の凄いところは、お金は全て両親持ちという点です。どうやら学生時代から彼女専用のカードがあるらしくそれで自由に買い物をしているそうです。一番驚いたエピソードは、むしゃくしゃした時にストレス発散でショッピングをしたのですが、知らぬ間にカード上限を超えたと笑って言っていた時は本当に驚きました。

「人生で一番運が良かったなと思う出来事」

30歳 女性のストーリー
大学入試です。
推薦で、他のクラスメイトより早く、年内に合格を決めました。
試験の内容は、小論文とディスカッションでした。
ディスカッションは、2人の面接官と5人ほどの受験生が集まり、一人ずつ1分程度で自己PRをするところから始まります。
私は、自慢できるような、リーダーシップ経験などがほとんどなく、部活を頑張ったことを話そうと思いました。
しかし、1分埋まるほどエピソードがなかったため、半分は歌を歌うことにしました。
本番では、少し驚かれたものの、他の受験生も「ディスカッション前にリラックスできたよ」などと声をかけてもらえ、自分自信も吹っ切れてディスカッションに挑めました。
実際、合格もいただけて、成功だったと思っていました。
大学卒業直前、ゼミの先生と入試の話をする機会がありました。
入試で歌を歌った受験生はどうやら噂になっていたようで、その時、面接官でなかったゼミの先生も知っていました。
そして、「あの先生(私の面接官だった先生)はそういうの(歌の自己PR)好きだからな。
俺だったら気持ち悪くて絶対落としてるわ。
」と言われました。
面接は同時に何部屋かで行っており、どの面接官に当たるかは運でした。
準備していったものが、たまたま面接官の好みに合ったことで大学に合格できた、本当に運のいい出来事でした。

「これまでで一番笑った話」

28歳 女性のストーリー
関西から転勤してきた同僚の話です。同僚は転勤の際、なんと自宅で飼っていたトカゲ5匹と蛇1匹を連れて引っ越して来たのです!(最近巷でちょっとしたブームの爬虫類オタクだそうで…)住んでいたマンションはペット可だったのですが、さすがにケージの中でバタバタと暴れる体長約80㎝のヘビを飼っているとは言い辛かったようで、近所の方には「旦那がダイエットの為に夜な夜なダンスしていてうるさいんです~!騒がしくてすみません!」と怪しげな嘘をついていたのだとか。
そんな同僚が1年後にまた関西の支社へ戻ることが決まり、いざ引越し!となった時に問題は起こりました。「1年間の間に丸々と太ったヘビとトカゲをどうやって移動させようか?」という課題に直面したのです。飛行機に爬虫類を預けることは禁止されているため、残る方法は自家用車か新幹線しかありません。数日悩んだのち、結局彼女はホームセンターで大きなスーツケースを購入して電動ドライバーなどで穴を開け、そこにクリアケースに入れたトカゲをヘビを入れて新幹線で移動したのです。そして無事に引っ越し完了。数々の面白エピソードを持っていた彼女ですが、この時の経験は今でも思い出話のネタとなっています。
46歳 女性のストーリー
以前勤務していた会社は制服があったので、毎朝出勤後はバタバタと更衣室で着替えていました。
会社の規定で、制服を着用しての通勤は禁止だったので、
朝はいつも慌ただしく着替えていました。

制服のスカートがとても軽い素材でできていたので、
履いているかいないのか分からなくなるくらい着用感のないスカートでした。

寝起きで出勤して寝ぼけたまま、毎朝更衣室で着替えていたので、制服のスカートのあまりの軽さにいつもハッ!としてちゃんとスカートを履いているかどうか、急ぎながらも何度も確認して職場に向かっていました。

ですがある日、いつもスカートを履いているのを確認しているから大丈夫だろう。と油断してしまい、
寝ぼけたまま急いで着替えを済ませたつもりで更衣室を出ました。
ところが、上半身は制服、下半身はストッキングからパンツが透けて見えている自分の姿を、エレベーター越しの鏡で見てしまい猛ダッシュで更衣室に戻りました。

恥ずかしいを通り越して、今でも思い出しては爆笑してしまうエピソードです。

「わたしがつかれた「優しい嘘」のエピソード」

32歳 男性のストーリー
自分が小学生の頃、母親が胃潰瘍になった。
入院して胃を一部摘出する手術を行い無事成功。今でも元気に過ごしているが、
数年経って思い出話のように話をしていたら家族と話が微妙に合わずに不思議に思っていたら本当は母は胃潰瘍ではなく胃がんだったという嘘をつかれていたことが発覚した。
当時小学生で心配性の私に負担はかけたくないと家族全員がついた優しい嘘だっが、嘘をついたままバラすのを忘れられていたのだった。
しかも、自分には3歳したの弟がいるのだが、弟には事実を告げていて家族の中で本当に私だけが胃潰瘍と思い特に深く心配はせず数年過ごしていた。
確かに心配性でネガティブに考えてしまうから嘘をつかれてよかったと思う反面、自分も一緒に心配したかったという気持ちもあった。
41歳 男性のストーリー
その日の午後~夜の遅番だったため午前中に、妻の夕飯用としてカレーを作りました。
完成したカレーを冷蔵庫にしまい「カレー作ったから食べてね」と書き置きを残して仕事へ向かいました。
深夜に帰宅したところ既に寝ている妻からも手紙が残っていて「おいしかったよ。ありがとう」と書いてありました。
私も小腹が空いていたので、1食分だけ冷凍しておいたカレーをレンジで温めて食べてみたところ、かなりの辛さ。
実は妻は辛いものが苦手で、いつもカレーは甘口で作っておくはすがその日に限ってカレー粉やスパイスの分量を間違えて、辛口に作ってしまったのでした。
冷蔵庫を見てみると、朝は未開封だったはずの牛乳の口が空いており、半分以上飲まれている状態。
辛いのを我慢して牛乳で流し込むように食べたんだな、と思いました。
32歳 男性のストーリー
夫からの本気で好きな人が出来たと妊娠中に言われました。
誰それ?と聞くと私のお腹を撫でてこいつしかおらんやろと言われました。
そんな嘘をついたことは無かったので、夫を今まで以上に好きになりました。
妊娠を告げてから1週間後に神妙な顔で言われたので、浮気されたんだと思いました。
なので、そう言われた時は思考が一瞬止まりましたが本当に嬉しかったです。
ここまで妊娠を喜んでくれるんだーと本当に嬉しかったです。
夫はなかなか自分の気持ちを伝えない人なのでこんなジョークで言ってくれるなんてとビックリしました。
本当にこの人と結婚して良かったなと改めて思えました。
この嘘で2人の絆がより深くなりました。
嘘にもこんなにHappyになれる嘘があると初めて知りました。
34歳 男性のストーリー
高校3年生の文化祭ではソーラン節、ダンス、太鼓のトリプルで練習を取り組んできました。
夏休みも返上してみんなが必死に練習してきました。
ときにはケンカもあったり、練習をサボる人がいて、クラスもなかなかまとまりませんでした。しかし、高校最後の思い出を作りたいために衣装から演出まで、毎日夜遅くまで話し合う日々でした。
私もソーラン節をまとめるリーダーだったため、あまりリーダー経験がなく、毎日どうしたらいいのか、必死な日々でした。
正直投げ出したくなることもありました。本番約1週間前、文化祭の取り組みについて話し合おうと急に友達に言われました。
今更何?って思っていたら、「ハッピバースデートゥーユー♪」と、クラスのみんなから歌とメッセージのプレゼントをもらい、思わず泣いてしまいました。
とても嬉しかった出来事です。
32歳 男性のストーリー
・貧乏な家計に配慮した担任の先生がみんなに配っていると言ってた遠足用のおやつを皆んなと同じだと言って多めにくれました。
他の子達はうまい棒一本だったが、300円分程戴きました。
・遠方に住む祖母の家で飼っていた犬が亡くなった際に私がとても可愛がっていたため、祖母に電話をする度に「たっちゃん(犬)元気?」と聞いていた。すると祖母は「元気だよ」と優しい声で答えてくれていた。暫くして祖母が体調を崩し、祖母宅に行くと犬が亡くなっていたことが分かった。弱っている祖母は「嘘をついてごめんなさい」と泣きながら言った。当時、両親が離婚した事も重なっていたため、私に犬が亡くなった事を言えなかったんだと思います。大人になってから思うのは、祖母が電話の度に嘘をついてくれていたんだと思うと切なくなります。
26歳 男性のストーリー
私が誕生日の当日に彼も私も仕事でお互いに
時間が作れないとのことになり、
私の誕生日を知っていた友人に誘われ食事に行きました。
すると、会えないと思っていた彼がその場所に現われ、
「お誕生日おめでとう。」と指輪を頂きました。
私は誕生日は会えないと聞いていたので
とても嬉しくて涙したのを覚えています。
「あれ?今日仕事だったんじゃなかった?」と聞くと
私の友人とプレゼントを探しに行ってて
どうせならサプライズにしようと思って
仕事で会えないと嘘をついたと
彼は照れた顔で笑いながら言いました。
指輪のサイズを彼が知るはずもないのに
サイズがピッタリだったことにびっくりしたので
「サイズはいつ知ったの?」と聞くと
「俺の勘だよ!」と彼は言いましたが
その友人が教えたことに私は気づき優しい嘘に
微笑ましく思いました。
24歳 男性のストーリー
自分が小学生くらいの頃に友だちと3人で学校内で悪さをして先生にとても怒られたことがあります。悪さを焚きつけたのは自分ともう1人の女の子だったのですが、3人の中の男の子が「僕がやりはじめました。」と言って嘘をついて自分たちをかばってくれました。おかげさまで自分たちはさほど怒られずすみましたが、その男の子の友達はだいぶこっぴどく怒られたようでした。あとあとその話を聞いた時、彼は女の子の自分たちを守らなきゃと思ったらしく、とっさに嘘をついてくれたそうです。当時はこいつなんでそんな不利になる嘘つくんだ?と思いましたが、時間が経って理由を聞いたらなんだかほっこりしました。これが自分がつかれた「優しい嘘」のエピソードです。
23歳 男性のストーリー
自分が保育園~小学生の頃、お手伝いが好きで共働きの両親に代わって洗濯物を取り込み畳むことを積極的にしてました。
夜になり母が仕事が終わり帰ってきて、その畳まれた洗濯物を見て「ありがとう~ほんと助かるよ~」ととても褒めてくれてるのが嬉しくて仕方なかったのをよく覚えています。
しかし、所詮小さい子供が畳んだものなのでたたみ方も綺麗とは言えませんし、タンスに入るように畳むにはまた違ったたたみ方があるのでしょう。
自分が寝たあとに母がこっそり洗濯物を畳みなおしているのを、夜トイレに起きた先に見てしまいました(母には気づかれてない)。
それがなんとなくショックで、逆に手を煩わせたような気がしてそれ以来お手伝いをあまり積極的にしなくなった覚えがあります。
しかし今考えると母のあの喜んでた顔は、息子の積極的に手伝う純粋な気持ちに答えるためだけでなく、その思いに対する本当の喜びであり、「愛」のある優しい嘘だったのかなぁと思います。
28歳 男性のストーリー
かなり寒い日でした。
その日彼氏とショッピングデートの約束をしていたのですが、私はまさかの寝坊をしてしまいました。
さらに悪いことに、その日は公共交通機関も麻痺。
当時はまだ学生でしたし、公共交通機関しか移動手段のなかった私は、彼に謝りつつ、待ち合わせ場所へと向かいました。
待ち合わせ場所は彼の自宅の近くだったため、「近くになったらまた連絡するから、自宅で待っていて」とメール。
彼からは「大丈夫、気を付けて!けがのないように!」との返信がありました。
「かなり時間かかりそうだから、今日はデートキャンセルで大丈夫だよ」と言うと、
「どうせ自宅で待ってるだけだから、せっかく向かってくれているんだし、待ってるよ」とも返ってきました。
結局待ち合わせ場所についたのは、当初の予定から3時間も経過していました。
直接謝り、手をつなぐと彼の手は氷のように冷たかったのです。
「冷え性だから」と隠そうとされましたが、半ば強引に聞き出すと、少なくとも1時間前からその場で待っていたとのこと!
時々暖を取りに近くの店舗に入ったりしたようですが、なぜそんなに早く来たのか問うと、「もしかしたら突然公共交通機関がスムーズに動いたら、今度はそっちを待たせちゃうでしょ?楽しみにしていたし、なんかただ待っていられなかった」と。
言ってくれたらよかったのにと思う反面、彼のウソのおかげで、私は氷道を走って転ぶことなどなく到着できたのだと思うと、寒い日でしたが心はとても温かくなりました。
34歳 男性のストーリー
どうしても待ち合わせに遅れてしまいそうな時に早めに「ごめんなさい。どうしても待ち合わせの時間に間に合わなさそう」と連絡を入れた。
もちろん到着できるだろう時間も添えて連絡をとったところ、返ってきたのが「大丈夫、こちらも同じくらいになりそうなので」という言葉。
正直なところ自分はかなりほっとして、変な焦りはなく行動できた。
実際に待ち合わせ場所へ着くと既に相手が到着していて、にこにこしていた。
手元には本があったし、息を切らしている様子もなく、もちろん汗ひとつかいていなくて、きっと予定通りにこの場所に到着して待ってくれていたのだろうなとそう思った。
もしも、着いていること待っていることを伝えられていたら焦って乗り継ぎを間違えたりしたかもしれないので、とても有難く感じた。
35歳 男性のストーリー
私には可愛がっているウサギが居て、でも事情があって一緒に住んでいなくて
家族が育てているウサギだったので私が会いに行っていたのですが、
冬の寒い日に「今日は寒いし来なくていいよ~」と言われて確かに寒いし今日はお家で過ごそう。
と特に何も思うことなくその日を終えて数日後に今日は行ってもいい?と訊いたときには
「おっけ~好きに来ていいよ~ついでに洗濯でもしといてw」と言われたのでいつものように訪ねて行き
ウサギを可愛がり掃除洗濯をし、家に帰って母親にそのことを話したのです。
そしたら母が実はあの日の朝、家族がウサギにご飯をあげようと小屋を覗いたときには
寒さのあまり動かなくなっていたウサギがいたそうで、私が見たら泣いてしまうと思って家族は
私には来ないように言い部屋を暖め、カイロや毛布をたくさん小屋に入れて仕事へ行き
昼休憩も家に戻り様子を見ていたら元気になっていたようで、
私が泣かなくて良かった~と一安心し、ウサギが元気なのを確認して数日経ってから母に言ったそうです。
何も知らなかった私は「どうして言ってくれなかったのか」と言いましたが
家族が私を思って嘘を吐いたのは判っていたし、ウサギは今でも元気なのでそれでいいかと思っています。

「苦手だったのに得意になったエピソード」

44歳 女性のストーリー
昔から、人見知りが激しくて「笑顔で挨拶」することが苦手でした。
挨拶は出来ても、愛想笑いが全く出来なくて、人間関係もあまりうまく出来ませんでした。

ですが、就職難で仕事が接客業しか無く、仕方なしに接客業をはじめましたが、そこで慣れてきたのか「笑顔で挨拶」が出来るようになりました。

勿論、仕事ですから「笑顔で挨拶」することは必然ですが、自分から話しかけることが出来なかった私が、自分から「挨拶」が出来るようになりました。
その後、お客様と会話していく中で、自然と笑顔で接客出来るようになり「笑顔で挨拶」することが「人を良い気持ちにさせること・決して不快にはならないこと」がわかり、接客業をやめて他の仕事に付いた時にも、仕事場の人たちや来客対応時にも自然と対応出来るようになりました。
そのため、仕事場の人間関係も良かったと思います。

私は今だにコミュ障ですが、「笑顔で挨拶」は必ずしています。
話が出来なくても、「笑顔で挨拶」していればとてもイイ印象を与えるみたいですので。
笑顔は、人を不快にしません。私の中では一番のコミニュケーション方法だと思っています。
36歳 女性のストーリー
小学生の頃から裁縫が苦手だった。家庭科の製作物は、いつも、見かねた友達が、私の代わりにやってくれていた。なので、自分に裁縫は無理だと思っていた 。だけど、大人になって、YouTubeを見るようになって、子供の体操袋やバッグの作り方の動画を見ていたら、自分にもできるような気がしてきて、試しに作ってみたら、あっさり作れてしまった。それからは、見よう見まねでバッグや財布やポーチなど、色々作れるようになった。今まで苦手だと思い込んでたけど、単にや
り方がわからなかっただけだったのかもと思った。口で説明されても、イラストを見ても、ちんぷんかんぷんだけど、動画ならスッと頭に入ってくる。最近は、バッグが欲しいと思ったら、まず作り方の動画を探して、自分で作っている。
35歳 女性のストーリー
小さいころ、お肉が食べられなかった私。
肉をいつまで噛んで、どうやって飲み込むのかがわからなかった。筋だけになった肉をいつまでも口に含み、親が見ていない時にティッシュにくるんで捨てるのだった。
小学生のある誕生日の夜、父に誘われて2人でステーキを食べに行った。そこで食べた肉は、あっという間に口の中からなくなり、溶けるようになくなった。
私は、とてもうれしくなり父を見上げた。このお肉、おいしいね!と喜ぶ私の頭を、父は少しの笑顔と「ごめんな」の言葉とともになでてくれた。
当時3人兄弟の弟が長期入院し、安いお肉しか食べてなかったと気付いたのは大人になってから。
きっと家族5人でステーキを食べる予算がなくて私だけ連れて行ってくれたのだろう。
あの時の父の悲しそうな笑顔を忘れない。
赤身ステーキの流行、私は大歓迎だ。
46歳 女性のストーリー
納豆です
栄養があって体に良いのは知っていますが、どうしてもニオイが苦手です
でも夫は納豆は平気、体に良いからとすすめてくれたのですが家族全員NGです
そんな納豆NGがOKになった日です

夫はいつも通り納豆を食べていました、それに「わさび」を入れてグルグルとかき混ぜていました
わさびをいれると納豆独特のニオイが分かりにくくなるとか・・・
納豆はダイエットにも良いと知っていたので夫に一口だけ食べさせてとお願いし数粒口にいれました
ホントにニオイがわからないのです
食べやすい!
翌日から半分たべ、その翌日から1パック食べれるようになりました
私が納豆を食べ始める様子を見て両親もわさびをいれて私の納豆を食べて納得し今では家族全員「納豆」を食べられるようになりました
でもみんな好みが違います
冷蔵庫には数種類の納豆が入っています
31歳 男性のストーリー
30も超えたいいオトナが、どうしても口にできないもの、それがニンジンです。
ニンジンには辛い思い出があり、小学生低学年の時に給食で出たニンジンの煮物をたべた際、
口に残る甘い味と、青臭いニンジンのエグミが原因で、その日食べた給食を教室内で嘔吐してしまい、クラスのみんなに笑われた思い出が未だに尾を引いて残っていました。
それ以来、20年以上、ニンジンを避けて生きてきたのですが、
付き合って間がない頃、当時付き合っていた彼女が、最初に振舞ってくれた手料理がニンジンスープでした。
自分がニンジン嫌いなことを知らず、仕事終わりにがんばって作ってくれた料理を残すわけにいかず、食べたのですが、そのスープがとても美味しく、それ以来ニンジンが好きになりつつあります。今の妻が、そのときの彼女です。
54歳 男性のストーリー
たいていの人は子どものころから嫌いな食べ物があると思います。私の場合はトマト。でもある時そのトマトが全く問題なく食べられるようになったのです。
子どものころから生トマトが食べられなかった私。トマトスープも、トマトケチャップも、煮たトマトも、トマトジュースもOKなのに、なぜか生トマトだけがダメ。友人から「トマトジュースが飲めるなら絶対に生トマトも食べられる」と力説され、そーかなーとマインドコントロールされてひと口食べてみましたが、やっぱり気持ち悪くてダメ。
ところが、就職してからイタリアに旅行に行き、ランチに出てきたサラダのトマトを食べてみたら、なぜか美味しいと感じて食べることができました。さすがイタリアのトマトは違うと思ったものです。
その後日本に帰国して、恐る恐る日本のトマトを食べてみたら、なんと全く嫌な気持ちがせずに食べることができたのです。ふとしたきっかけってなんともスゴイですね。
51歳 男性のストーリー
小学校低学年生のころ足が遅くて運動が大嫌いで、体育の授業がある日、運動会などは、ズル休みしたくてグッズってよく母に叱られていた。
でも、6年生になるころから成長期になり、体が大きくなるのにあわせて足が速くなった。
特にトレーニングをしたわけでもないのに、学年でトップグループに入るぐらいに短距離走を速く走れるようになっていた。
足が速くなると嫌いだった運動が好きになり、中学・高校では、体育の授業、体育祭、部活などで活躍できてかなり目立っていた。
目立つようになると、モテる様になり、先輩・後輩・同級生を問わずチヤホヤされた。
思い起こせば、人生で一番モテていたのは、このころだ。
あれから数十年、いまでは立派なメタボ中年、人生で一番足が遅くなっている。
51歳 男性のストーリー
小学校低学年の頃、足が遅くて運動が大嫌いだった。
体育の授業のある日、運動家の日には、ズル休みしたくてグズって、母に何度も叱られていた。
でも、6年生になるころには成長期になり、体が大きくなるのにあわせて足が速くなっていた。
特にトレーニングをしたわけでもないのに、学年でトップグループに入っていた。
足が速くなると大嫌いだった運動が好きになり、中学・高校では、部活・体育祭などで活躍できて目立つようになっていた。
目立つようになるとモテるようになり、先輩・後輩・同級生をとわずチヤホヤされていた。
思い起こせば人生で一番モテていたのは、このころだった。
あれから数十年、今では立派なメタボ中年になり、人生で一番足が遅くなっていた。
20歳 女性のストーリー
私は小学生のときから勉強が全般的に苦手で、特に算数や、中学になると数学などの、数字を使った学習が一番苦手で嫌いでした。
放課後や夏休みなどは、成績が芳しくない生徒を集めた補講で殆ど無かった思い出があります。そんな中で、私は周りの友人から勉強が全く出来ないと認識されていました。
もちろん私も自分自身の事を、そう認識していました。その頃の私はそもそも努力をしようとしていなかったのです。

しかし、中学2年の時、「どうせ馬鹿だからね〜」や「〇〇(私)よりも成績低かったら終わる」と、私の目の前で全く悪意がなく言われるのが嫌になっていきました。

そこで、ようやく塾に通いはじめ、家では常に学習に勤しんでいきました。
友人達には次のテストの結果で驚かせたく思い、学校ではなるべくいつも通りを貫いていました。

その結果、私は次の定期テストで全ての科目で高順位取る事ができました。
その中でも、一番不得意だった数学で学年一位を取る事ができだ事が、自分の中では最も嬉しい出来事でした。
その結果をみて友人達からはとても驚かれました。
中学生活の後半には、友人から勉強を教えて欲しいと言われる事が多くなりました。
私は人の倍以上勉強をしないとできないタイプでしたが、それでも努力次第で得意な事は増やせるんだと、この体験を持って深く実感いたしました。
48歳 男性のストーリー
中学校2年迄、数学が大の苦手で、正負の計算なんかは訳分からず、+と-の計算は特に理解に欠けていて計算値や符号が間違いだらけでした。方程式はなんとか理解出来たのですが、不等式はまるで分からない状態 でした。
図形の証明問題なんかはまるっきり解りませんでした。
そんな状態で中学校3年に上がった時、数学の先生が若くて教え方のいい方に変わって見違える程良くなりました。それまでは、年輩の声もはっきりしなくて字も小さくて読みにくい先生でした。はっきり言って教えるのが下手な方でした。 ただその若手の先生は教え方も上手で解りやすいものでした。 お陰であんなに解らなかった整数の計算も分かるようになり、 符号や計算値も出来るようになりました。不等式も理解出来るようになり、図形の証明も出来るようになり、卒業する頃には得意になりました。
お陰で理数系の高校へ進学出来ました。
42歳 男性のストーリー
小学1年まで鉄棒が苦手でした。今でも忘れられない3歳の時に頭から落ちたからです。その時の怖さが忘れられず苦手だったのですが小学2年生の時の事、学校で七夕の短冊の願い事を書いてくる宿題がありました。「七夕さんでお願いしたら本当に願い叶うの?」と母に聞くと「お願いして努力したら叶うよ」と言われ本気で信じた私は鉄棒ができるようになりますように、と願い事を書き、それから必死で練習をしました。七夕さんが見守ってくれているから大丈夫と信じて…。それからはぐんぐん上達し小学4年生になった頃にはクラスで1番小さい私が1番高い鉄棒で体育の時間にお手本をするまでになりました。信じる心というのはすごいなと大人になった今思います。
46歳 男性のストーリー
昔は私はピアノが大の苦手でした。まず、おとなしく座っていること自体が困難でした。すぐに暴れたり、背中にかゆみが出てしまうくらい苦手なものでした。何度も先生を替え、試してみましたが、なかなか得意になりませんでした。5回目くらいに、幼稚園のときの園長先生が私のピアノの先生になりました。小学生の中頃でした。先生が替わった頃からだんだんピアノが得意になっていきました。指導法なのかもしれませんし、先生が私の特性をよく知っていたからかもしれません。私が、ピアノが嫌いなだけで、音楽自体は大好きだということを見いだしてくれたのです。それで、音楽からストーリーを作ってピアノで表現する方法が編み出されて、私はピアノが得意になりました。
50歳 男性のストーリー
私は幼い頃からとても人見知りの性格だったと母親は、言っていました。
小学校3年生の時に生まれ育った大阪から父の転勤の為、遠く離れた九州の福岡に転校をしました。
その時に思ったのが、大阪時代では、とても活発な性格でしたが、福岡に来るとやはり、「転校生」という目で見られたのが、幸いしたのか、皆からは余り声をかけてもらえませんでした。
そこで、私が思っている「大阪パワー」を発揮しました。
大阪の頃は、皆が私を頼ってくれていたのですが、今度は私が、自分から進んで皆に接していくことに頑張りました。
段々と、友人も増えていき、小学校では、友達を増やして、そのまま皆一緒の中学校に進みました。
それから、中学校時代では部活の部長や、生徒会にも参加したので、大阪時代ではない、人との関わりに接しました。
それは、私が、就職先として選んだ「生命保険のセールス」にも、十分すぎるほど、役に立ちました。
初めて会う人への礼儀作法や気遣い。
これは、私が、経験した幼い頃の知らない人への経験があると思います。
25歳 男性のストーリー
私が苦手だったとこは朝起きる事です。
実家にいた頃は目覚ましをかけてもほとんど起きる事が出来ず、夜早く寝てもダメで親に頼んだ際も起こされたことにすら寝ぼけて気づかないこともありました。やっと起きれても二度寝をしてしまうなどかなり酷いものでした。
しかし、一人暮らしを始めてから一度も寝坊をしたことはありません。特に早く寝ているわけでもありませんし、むしろ遅くまで起きてる日も多くありました。それでも朝になると自然と目が覚めます。もちろん目覚まし時計はセットしていますが目覚ましが鳴る前に起きることもありました。
しかし、休みの日に実家に帰った際はまた朝起きることができなくなっていました。
これは、会社に遅れては行けないと言う気持ちの問題だと思いました。
37歳 男性のストーリー
苦いピーマンやししとうが小さい頃から苦手だった。
そのものの苦さしか感じなかったからだ。
大人になり仕事場で用意された中で青椒肉絲弁当しか残っていなかったので試しに食べてみたら味付けが濃いからか、美味しく食べる事ができた。
その後にピーマンが食べられるようになったのかと自分自身を疑い、もう一度青椒肉絲を食べてみることにした。するとやはり美味しく感じて、そこから自分自身でピーマン料理に手を伸ばすようになった。
同じようなししとうも、もしかしたら食べれるのでは?と思い試してみたら食べられた。
小さな頃は家庭で出てくる味付けしかしらなかった為にピーマンそのものの味を苦手と感じるだけだったが、ピーマンの苦さを上回る味付けによって、ピーマンの苦さがポイントになるんだと思える料理に出会えた事が苦手からむしろ得意になったきっかけだった。
25歳 男性のストーリー
私は昔から恥ずかしがり屋で人前に出て発表したりするのが苦手でした。ですが母親に勧められダンスを習いに行ったんです。最初はレッスンでも少し恥ずかしかったのですが、だんだん慣れていき楽しさが分かってきました。ダンスを習いに行ったことで、学校の行事や委員会決め等で、恥ずかしがらずに手を上げて意見を言ったり、進んで体育委員になり、中学、高校とずっと続けられて体育祭では選手宣誓まで出来るようになりました。
高校の卒業式では在校生や親がいる前で、答辞も読んだほど人前に出ることができるようになったんです。
ダンスを習うことによって自信が付き、人前に出るのが苦手だった自分が人前に出れるようになったというエピソードです。
39歳 男性のストーリー
コミュニケーションかもしれません。話はするのは好きやし、聞くのも好きなのですけど、いかんせん口下手で上手く説明や伝える事が出来ませんでした。聞く方も楽しい話はいくら聞いていても飽きないのですが、面白くなくなると、すぐに飽きてしまいます。若干人見知りな部分があり、他人と少し距離を置いている方が楽だったりします。
けど、仕事柄これではアカンっと思い、少しずつ慣れていこうっと思いました。元々お笑いが好きだったので、日常の会話全てを喋くり漫才として、捉えてみました。どうしたらもっとこの人に興味が持てる様になるだろう?っとか、どう話せばもっと上手く伝わるのか?などを漫才形式で考えていけば、凄く会話が楽しくなってきました。ちゃんとフリを効かせたり、ボケを入れてみたら、時にはツッコミに回ったり、勿論ちゃんとオチまで回収します。
苦手だった事に対して、自分が好きなジャンルや事柄に置き換えてみたら意外と見えていなかった事が見えてきた気がします。人見知りの部分も自分は演者や!っと思ってしまえれば凄く気が楽に接する事も出来ました。
33歳 男性のストーリー
子供の頃から春菊が苦手でしたが、今では大好きになりました。あの苦味と匂いか苦手で、すき焼きなどに入っていても食べられませんでしたし、天ぷらにしても何をしても食べられませんでした。ずっと苦手だったので、手をつけていなかったのですが、ある時入った蕎麦屋さんで鍋焼きうどんを注文したのですが、脇に春菊が入っていました。避けて食べても良かったのですが、勇気を出して食べてみましたらとても美味しいではないですか。甘く煮付けられた椎茸の味をスッキリさせとても美味しく感じました。それ以来、すき焼きや天ぷらなども食べてみましたが、大好きになりました。今では春菊を自分で買って、春菊単体で胡麻和えなどにして食べています。
34歳 男性のストーリー
今から書く事は大した事ではないんだと思うものの、これは誰もが経験する事だと思いますが、食べ物関係で小さい時は食べられなかったものが年を重ねるに連れて食べられる事がよくある話ですが、僕自身も幼少期、魚類や野菜の一部があまり食べられなかったり(もしかしたら食わず嫌いの面もあったんだと思いますが…)したんですが、ここ最近、完全に克服までには至ってはないんですが、魚類や野菜の一部も食べられる様になり、話によると体質の変化だったり、話は変わりますが、珍味類が食べられるのは味覚・嗅覚が幼少期に敏感だったのが年を重ねる事に連れ、老化により鈍る事が影響しているとも言われているそうですが、老化というのはマイナス要素であるものの、年を重ねるというのは悪くないとも感じてます。
27歳 男性のストーリー
私の苦手だったものは、トマトです。
以前子供の頃は大好きで食べていたようなのですが、小学校に入ってから突然苦手になり、そこから食べることはほとんどありませんでした。
とにかく食感がドロドロとしていて気持ち悪いという印象と、物によって味が違うのでハズレを引いたら美味しく無いから食べたく無いと思って避けていました。
それがここ数年で妊娠をして、つわりがひどく偏食になった際に、自らとてつもなくトマトが食べたい欲が湧いてきて試しにスーパーで買ってきてみたところ、美味しくて美味しくてたまらず。
今まであんなにも気持ち悪くて食べたくなかったのに、一度食べたらとても美味しくてそれからははまってしまいました。
つわりの時一時的なものかと思っていたら、そのあともずっとトマトが好きになって、とても得意になりました。
44歳 男性のストーリー
私は人と話すことが苦手でした。
人が嫌いという訳ではないのですが、特に大勢の人と話さなければいけないときなど、緊張してしまい、相手を傷つけないようにと、気を使って話していたのです。

なので必然的にあまり人前では喋らなくなり、大人しい人とまわりには思われていました。

でも本当に仲良くなった人には心を開くことができて、面白い話など沢山します。

友達に「面白いー」と言われると嬉しくなる私。

本当の私は社交的で明るいというのを自分ではわかっていました。

そんなときある男性に「そんなに気を使って生きてて疲れない」と言われました。

初めは大して仲良くもないのにと少し腹を立てましたがよく考えてみると彼の言っていることは正しいと思うように。

そのときから私は人の気持ちを考えすぎること、気を使いすぎる事をやめようと思いました。

なかなかすぐには変えられませんでしたが、肩に力が入らなくなり、自分の意見も言えるようになってきて前よりは人と話すのが苦手ではなくなりました。
30歳 男性のストーリー
学生になっても、社会人になっても実家暮らしで、母が専業主婦だったので食事も掃除も洗濯もすべて任せていました。
楽だと思いながらもこのままでいいのかという気持ちもあり、25歳位から週末は夕食を作ってみたり、自分の部屋の掃除をしたりしました。
しかし段取りが悪かったり、作業が雑だったりとなかなか上手くはいかず、かえって手間がかかると面倒でした。
そんな私が結婚をして親元を離れて生活をするようになりました。
主人は神経質ではありますが家の事をほぼやらないという非常に厄介なタイプです。結婚当初はちゃんと生活できるか不安でした。
試行錯誤の末、2年経った現在、フルタイムで働きながら朝夕の食事作り(出来合いの物はほぼ使用しない)、掃除、洗濯、地域の活動をこなす私がいます。
完璧とはいかないかもしれませんが、快適に過ごせる環境にはなっています。
人間は必要に迫られたら予想以上の実力を発揮するのかもしれません。自分でも驚いています。
39歳 男性のストーリー
街で小さい子供に会った時に、コミュニケーションをとれるようになった。
もともと子供が嫌いだったのと、自分が一人っ子で親戚とも離れて暮らしていたため、子供という存在が身の回りにいなかった。だから、公共交通機関やショッピングセンターに子供がいても、できれば関わりたくないし、泣いていることに嫌悪感はかんじなかったけれど、どうしようもないと思っていた。
自分が出産し、子育てをしていく中で、公共交通機関で自分や子供に話しかけてくれる大人に救われることがたくさんあるんだと知り、自分自身も子供の扱いがある程度わかるようになったため、子供と接するということに対して、抵抗感がなくなっていた。
もちろん、泣かせっぱなしや騒がせっぱなしで、何もしない親に対しては許せない存在なので、接すること自体避けたいという気持ちは昔のままであるが、必死になっているお母さんの子供に対しては、協力してあげたいという気持ちのほうが大きくなった。他人の子供に対して、すごくかわいいとか好きとかいう感情があるわけではないが、話したりあやしたりということが苦手だった私だけれど、子供を持つようになって、話しかけたりあやしたりが得意になった。
26歳 男性のストーリー
ハイボールや焼酎、日本酒、ワインなど色んなお酒をチャンポンして飲むが、ビールだけはどうしても苦手で乾杯の一杯しか頼んだことがなかった。

ビールが苦手な理由は、独特の苦味を感じるからだった。私は飲みすぎて吐く事があり、ビールを飲んだ後に吐くと非常に後味が悪く、スッキリせずにその後の飲み具合に影響した経験があり敬遠していた。

しかし、ある人と出会って私は変わった。
ビールの苦味すら愛するようになったのだ。

仕事関係で知り合った大酒呑みの先輩。この人はとてもビールが好きだった。ビールはアサヒと決めており、そのキレや旨みについてよく理解し私に教えてくれた。飲みっぷりもさる事ながら、生き方も豪快な先輩にいつしか憧れを抱き、毎週のように一緒に飲み歩くうちに、私は苦手なビールを克服しむしろ得意分野としてビール愛を語れるようなった。
53歳 男性のストーリー
幼い頃、土地柄から山菜がよく取れ食卓に並ぶ事が多い事がありました、山菜の味は独特であくが強く幼い頃は苦手でした。周りの家庭は野菜といえばほうれん草、かぼちゃなど代表的な野菜ではありますが我が家は何時も山菜です。野菜の甘みが無く子供心ではありますがまたかよっていう感じでしたが、いつの日からかお酒を飲む機会が増え、つまみといえば山菜がつまみとなっております、ご飯のおかずには合わないと思っていた山菜ですが、お酒には無くてはならない存在と現在はなっております。
あんなに苦手だと思っていた山菜が、逆に好物になったのが不思議です。やはり子供の舌と大人の舌では感覚が違うのかと思っております。
現在、自身も親となり子供に山菜を勧めると食べてくれません。繰り返しのエピソードであります。
29歳 男性のストーリー
私は臭覚が人より少し優れていて、人の匂いや草の匂いを嗅ぎ分けるのが特技でしたが、一番苦手だったのが食事の時間です。
自分の好きな匂いの時はよかったのですが、バジルやパクチーなど匂いの強いものが食卓に出てくる時が本当に苦痛で、いつも鼻で息をしないようにご飯を食べていました。
成長とともに臭覚が麻痺したのか、大学生の時にジェノベーゼパスタに挑戦してからやみつきになり、今では匂いの強い食べ物が得意になり自宅の庭でバジルを植えて育てています。
自分で作るバジルペーストがすごくおいしいので、パスタや鶏肉、魚介なんでもバジルペーストをかけて食べています。
まだパクチーは得意ではないですが、食べられるようにまでなったので、小さい頃食べれなかったのが本当に不思議に思います。
77歳 男性のストーリー
私は一人っ子で、内気な性格でした。
あまり人とおしゃべりすることもどちらかといえば苦手でした。
これは吃音もあるためかもしれません。
言葉がスムーズに出てこないのですね。
自分でも声を出して本を読んだり、落語等を練習したりもしました。
まあまあそれなりに高校から大学に行きました。
その後に地元の某信用金庫に勤めました。
最初は本部の経理部でしたので、あまりお話することもそれほどは多くはなかったです。
しかし電話はやはり苦手でした。
その後数年たって営業店に転勤です。
最初は本部にいたので、同期とは仕事の面で大分ハンデがありましたね。
それで支店長は最初は預金から始めて一通り仕事をまわすと。
しかし同僚が社内結婚で、私は半年の預金だけ6か月の勤めで、今度は営業にまわされることになりました。
貸し出しの経験も0ですので、次長がこの人はこのまま仕事が勤まるかと心配したとか。

そのときに、なんとか歳のこうで、なんとかごまかしていました。
営業の研修も受けました。
その後ですね。このままでは駄目だと。
それで誰とでもおしゃべりができるように性格を変える努力をしたのです。
やはり営業は飛び込みの勧誘もあります。
10軒行けば10軒断れます。これが当たり前だと思いました。
それでも自分のテリトリーをくるくると回っていました。
その間、そこは下町だったので、自分でも勉強しました。
そこの人達はギャンブル好きが多かったですね。
そこで競馬も野球もマージャンもパチンコもゴルフも覚えました。
それとくるくる町内を回っているときに、その家の様子を観察しました。
どのような洋服が洗濯で干されているとか、自家用車はどんなものかとか、犬を飼っているとかです。
それで数回訪問しているときに話題を合わせたのです。
そのようなことを数年しているうちに、ある程度はどの人でも話を合わせられるようになりました。
私がどうにかこの信用金庫でやってこれたのも、この時の営業の経験だと思います。
今では話し好きで通っています。
38歳 男性のストーリー
私は物心がついた時から人見知りで、人と話したり
コミュニケーションを取るのが苦手でした。
母はそれを察していたようで、よく一人でお使いに行かせたり、病院等に行かせてはいましたが、幼少期には克服出来ずでした。
中学生・高校生時代は心が許せる数名程度の友人はいましたが、先生ともあまり話さず、人前に出るのが嫌で嫌で堪りませんでした。
高校を卒業し、建築の専門学校に進学しましたが
友人らしい友人も出来ずに半年くらいで学校を辞めてしまいました。今、思い返すと、この時に友人がいたら
学校を辞めていなかったんじゃないかと思います。
学校を辞めて建築関係の仕事を転々とし、相変わらず人とコミュニケーションを取るのが苦手なままでしたが、
そんな私に転機が訪れました。
ひょんな事から花屋を開業することになり、同時に結婚し、家庭を築くこととなりました。
経営は難しく、やはりお客様とのコミュニケーション無しでは成り立たない商売ですので、「家庭」という二文字を抱えていた私は必死に且つ、積極的に接客を行っていきました。
不思議と人と話すのに慣れていき、今となっては
仕事以外のプライベートなどでも、こちらから
他人に話したり出来るようになりました。
やはり、仕事や家庭によって心境の変化があれば
人って苦手なことが克服できたりもするんですね。
28歳 男性のストーリー
小学6年生からパソコンの授業が始まりました。
当時の私は「触ってもし壊してしまったらどうしよう?」という気持ちでパソコンに触るのが嫌で嫌で仕方が無かったのでパソコンの授業が一番嫌いでした。
ですが中学生になり夏休みの期間中にパソコンがある親戚の家に数日泊まることになりました。
それがきっかけで苦手だったパソコンを今度は一日中触るぐらい夢中になり、自分の家にもパソコンが欲しいと考えはじめ親に頼みこんで購入してもらいました。
自宅でもパソコンを毎日触る日々が続き、その時には自らブラインドタッチを意識して遅かった文字の入力も早くなり、他にはサイトやブログを作成してHTMLを覚えたりなどパソコンに没頭していました。
その結果、パソコンの授業が一番好きな授業となり高校生のころにはパソコンに関する資格だけはすぐに取れたりと、思い出深い出来事になっています。
33歳 男性のストーリー
洗濯が得意じゃなかった。洗濯機に入れて回すことはボタンを押すだけなのでいいのだが、シワをパンパンして干したり、乾いたら畳むのがめんどくさいため、あまりやりたくなかった。実家にいる時は、母親のこだわりの干し方がありそれに合わせるのも苦痛だった。
結婚して、どうしてもやらないとダメになり、イヤイヤやっていたが、自分の好きなように干せるようになったり、好きな洗剤や柔軟剤の匂いなど、自分の好きなものを選べるようになってから、楽しくなってきて好きになってきた。洗濯機をあけて自分の好きな匂いに変化した洗濯物を見るのが楽しみになり、干し方も自分のこだわりの通りに出来るようになってから、どうすれば早く乾くかなと考えながら干すのも楽しくなってきた。
28歳 男性のストーリー
女性と話すのが苦手でしたが、とある女性と出会ったことをきっかけに割りと得意になったと思います。
社会人一年目の途中までは女性と話すのが本当に苦手で、複数人で話しているときはまだましなのですが、一対一となると何を話していいのか分からずに
てんぱってしまう日々でした。自分でもどうにかしたいと思っておりましたがなかなか改善できない日々でした。そんな矢先に先輩からとあるバーに連れて行ってもらい
そこで一人の店員さんとであったことで変化が見られました。はじめは先輩含め三人で話していたのですが、先輩が体調を崩しトイレに立てこもっている際に
二人きりで話すことになりました。最初のうちはいつものようにあせっておりましたが、なぜだか自然と話せるようになりました。
33歳 男性のストーリー
大勢の人の前で話すことが昔から苦手でした。
社会人になって就職したのは高齢者対応のデイサービスでした。
あまり考えずに介護の仕事がしたいと思い就職したのですが、就職してからデイサービスというのは始終高齢者の前に立って体操をしたり、歌を歌ったり、レクリエーションをやって盛り上げたり、司会をやったりということでした。
初めて大勢の方の前で仕切って体操を行なった時はとても緊張して泣きそうになりましたが、これを毎日のようにこなさなくてはならない状況だったため自然と肝が座りおどおどすることなく司会なども行えるようになり、人前で話すことが得意になりました。
誰でも情況が変わって慣れてしまえば苦手だったことも得意になるものだと思いました。
28歳 男性のストーリー
車の運転が苦手でした。最初から大きな車を購入したのですが、即ぶつけました。(実家の塀にガリガリもしました。)
それがきっかけで運転するのをなるべく少なくしようとも考えましたが、土地柄的にそうもいかず。
田舎なので車は必須。バスは2時間に1度くらいしかないので。
周りも免許取りたてはそんなもんだよ。と言ってくれましたが、人をひいたりしたらどうしようと思い中々ふんぎりがつきませんでした。
結局のところ大きな駐車場で朝、夜と練習をしました。車を小さいのに変えたら?とも言われましたが小さいので慣れてしまうと
もう大きい車に乗れないのではないか。と不安なので大きい車のまま。車の大きさ(車幅や全長)を理解してくると
ここは行けるな。とかここはバックしようとか焦ることも減りました。今ではドライブが大好きになりました。
あきらめずに練習しておいて今は良かったと思います。
24歳 男性のストーリー
私はもともと料理が苦手でした。
お湯をわかしてもやけどする、パンを焼いても焦がすなど、もはや料理と呼べないレベルからできませんでした。
このままでは将来彼氏、旦那ができたときに困ると思い毎日自分のご飯は自分で作ることにしました。
実家に暮らしているものの、自分で作らなければご飯はないので買い出しからすべて初挑戦ですが見よう見まねでやりだしました。
最初は簡単な包丁の使い方をマスターするためにひたすらみじん切りをしました。
カレーのごろごろとした野菜が好きですがすべてみじん切りで入れていました。
でもそうすることで、みじん切りも習得できて、カレーも作れて一石二鳥でした。
あんなにも作れなかったのにすぐに上達することができたのは、やはり毎日料理をしたこと。
気になったことは面倒でも一回一回手をとめて調べること。だとおもいます。
今は携帯でyoutubeを見れば動画があります。
文章で説明が分かりづらくても、動画を見ると本当にわかりやすく習得も早いのは
料理に限らずだと思います。
31歳 男性のストーリー
高校生になったばかりのころはまだ小説というものが苦手でした。
もともと挿絵の入ったものや漫画を読むことが多くて、絵というのは私にとって気休めのようなものだったんです。
それがまったくない小説はただ字がずーっとつらなっていて息苦しさを感じてしまうのでした。
しかし私の通っていた高校は朝に読書をするという時間を設けられていて嫌でも読まざるを得ない状態になってしまいました。
最初こそ適度に挿絵が入っている児童書を読んでいましたが、徐々に文字だけでも慣れていって最終的には小説が読めるようになりました。
きっかけは全国模試か何かに載っていた「西の魔女が死んだ」です。これものちに児童書だということが分かりましたが、その購入した本には絵は1つも載っておらず、私が小説嫌いを克服したきっかけはそれでした。それ以降小説を読むのは大好きになっています。
36歳 男性のストーリー
飲食業の接客。
昔調理師の学校に通いながら居酒屋でアルバイトをしていて厨房で修行がてら仕事をしていたのですが
とにかく外に出るのが億劫というより頭が真っ白になってお客様に対応すら全くできなかったのです。
片付けものを裏に下げるだけでもかなり緊張してしまうレベルの重症っぷりでした。
後に資格を取りレストランで働く事になったのですが、そこには実演カウンターがありました。
つまりお客様の視界がある中仕事をしないといけないと言う事です。
苦手だからやりたくなかったのですが、以前と違い社員。やれと言ったら苦手だろうと問答無用です。
そして案の定カウンターに立ってやれとなり最初はやはり真っ白になったのですが・・
気が付くと急に楽しくなってきてお客様と接するのがやりがいになってしまいました。
最終的にある時子供がもじもじしながらこちらに来たかと思うと手紙と自分の焼肉焼いている似顔絵を
渡してくれたのはいい思い出でした。
23歳 男性のストーリー
苦手だったことは異性と話すことです。異性と付き合ったこともなく、異性との関わりがまったくありませんでした。ちょっとかわいいなと思った子がいても「嫌われたらどうしよう」・「自分なんてかっこよくないしな」などと自分を否定的にとらえてばかりで関わる機会をものにすることがまったくできませんでした。
しかし、自分に転機が訪れます。自分の転機は、高校二年生のある出来事でした。その出来事とは、勉強が得意だった自分に女性が「勉強教えて!」と声をかけてくれたことです。声をかけてくれたことでまずは期待に応えようと必死で今まで以上に勉強しわかりやすく教えることができました。
その結果その女性が喜んでくれ、仲良くなり付き合うことになりました。
それによって多くの異性の人に積極的に話しかけられるように得意に変化してきました。
30歳 男性のストーリー
家の片付けが苦手でした。
小さい頃から出したら出しっぱなしや開けたら開けっ放しなど、よく母親に怒られるタイプでした。
18歳の時から親元を離れて一人暮らしをするようになり日々部屋が荒れ果てていくのを感じ、このままではまずいと思い、散らかる原因を考えました。
原因はとてもシンプルで物を置く場所を決めていないこと、たったこれだけでした。
帰ってきたときにカバンを置く場所や上着をかける場所、細かいことを言うとリモコンの置く場所まで。
全て寝る前にどこに置かなきゃいけないとルールを決めてそれを守ることを続けました。
本当にたったそれだけで部屋が綺麗な状態が維持できるようになりました。
片付けが得意になったというよりは片付けをしなくていいように工夫したが正しいかもしれませんが、部屋を片付けるという作業が得意になったと自覚しています。

「もっとも尊敬する人」

28歳 女性のストーリー
私が尊敬する人は、オンラインゲームの中であったフレンドです。
その人は年上の男性で、話し方もフレンドリーで面白く、人付き合いも上手くて、人と上手くコミュニケーションをとれないまま関係が終わってしまう私にとっては本当にありがたい存在で尊敬できる人です。
また、その人自身が経験した出来事が、ときには本当なのか?いやでも嘘をついているようには見えないし……といった絶妙な加減の面白いエピソード、怖いエピソードなどとにかく話題がたくさんあっていつも惹かれて話を聞いてしまうぐらい魅力的な人でした。
なので、私が仕事をする上でその方から聞いたエピソードを参考にすることもあったりと、私もこの人のような面白い人間になりたいなと思っています。
50歳 女性のストーリー
私がもっとも尊敬する人は、星野源さんです。
普通なら、両親や、兄弟、先生・・など、身近な人の名前を出す人が多いかもしれないのですが、私の中の、尊敬に値するイメージは、真の自分を飾ることなく認め、受け止め、そのことを外に発信できる力を持っている人・・・であり、星野源さんはまさしく当てはまります。
星野さんの、音楽、執筆した書物、ラジオの語りからは、常に、自分の弱さを飾ることなく認め、平凡な、時にはバカバカしいと思える日常を、慈しみ、生き抜く力に変えていく証を見出すことができます。
私は、世の中のために、偉大なものを発見したり、作ったりできるほどの能力は持ち合わせていないけれど、星野源さんのように、自分の恥ずかしい部分を隠そうとせず、正直に、ありのままの平凡な日常の、何気ないエピソードを歌いながら、生まれてきたことに感謝を感じ、人生を全うするような人間でありたいと思っています。

「忘れられない先生の話」

23歳 男性のストーリー
忘れられない先生は小学校の5年生と6年生の担任をして下さったN先生です。

自分自身小学校の頃は割と不真面目な人間でした。
不真面目といっても、皆様が想像するような不良ではなく
宿題は必ずと言っていいほどやってこない
口よりも先に手が出てしまう、しょうもないいじめっ子のようなものです。

更に目立ちたがりだったため、生徒会長や委員長といった仕事もしていましたが
目立つことだけを考えていたので
責任感なぞあるわけもなく、前述のいじめっ子気質のこともあって
毎日のようにN先生に呼び出されておりました。

ただ、自分がどんな馬鹿なことをしてもN先生は常に優しく
諭すようになぜ自分の行動は間違えているのか
どうすれば良かったのかを教えてくださいました。

時には自宅まで車で送ってくださったり
宿題を忘れたときは休憩時間に付きっきりで
私が終わるまで、見てくださったりと
お忙しいにも関わらず、本当にご迷惑をおかけしました。

とても印象に残ったようなエピソードがあるわけではありませんが
他の先生方以上に自分自身に向き合ってくださったことが
童心ながら、記憶に残っております。

私が小学校を卒業してすぐに、教員の仕事はやめられたとお伺いしました。
今は、何をされているのかはわかりかねますが
長年お会いできていないので
また時間を作って、ご挨拶にお伺いしようと思います。

「人生最大の失恋話」

23歳 男性のストーリー
私には好きな女の子Sちゃんが居た。
Sちゃんはクラスの中でも人気が高く、いわゆる陽キャラと言われるイケイケグループの一員だった。
そのころはまだガラケーが主流で、やり取りもメールが一般的であった。
学生で在りながら携帯電話を与えられていた私は、Sちゃんとメールをすることに夢中になっていた。
メール世代の方はお分かり頂けるだろうが、”新着信メール受信“で何回メールが来ていないか確認したことか。
そんな甘酸っぱい日々を過ごしている中で、知り合いの男の子Hくんに彼氏ができたという情報が入ってきた。
「おお、あいつでも彼女ができたのか」
そう思った私は、自分にも彼女が欲しいと思うようになっていた。
「狙うはあの子しかいない」
そんなことを思いながら返すメール。ワクワクとドキドキを繰り返す。とても充実していたと思う。
ある日私は決心した。
「告白しよう」
そのようにして告白できたならよかったのだろうか。
臆病な私はぬるっと
「なぁ、Hくん彼女できたらしいよ。俺らも付き合ってみる?」とメールで打っていた。
今思うと、なんてかっこ悪い告白の仕方なのだろうと思う。
結果は
「ごめんなさい。」だった。
「まじか、、、」
そう思ったのも束の間、あるメールが飛んできた。
「Hくんの彼女、私だよ」
悲しみが一転、驚きと恥ずかしさに変わった。
「今までのドキドキは何だったんだ。。。彼氏持ちだということに気付かないなんて、しかも彼氏Hくんかよ、、」
恋愛は厳しいものだと認識させられる、中学生の時のエピソードでした。

その後、Sちゃんとのメールはぱったり途絶えました(笑)

「今だから言えるごめんなさい」

42歳 女性のストーリー
社会人なりたての頃、常識が全くなくて、会社名をことごとき聞き間違えて
社内中をパニックに陥れたことがあります。
例えば、伊藤忠商事の伊藤忠を、伊藤 忠(タダシ)さんと言ってしまったり、
丸紅を紅花と言い間違えてしまったり(イメージで喋ってしまう)
IBMを聞き間違えてアイビーム、、目からビームってどういうことなんだろう?と
先輩に堂々と聞いてしまい、先輩に「質問の意味がわからない!」と困った顔をされたりしていました。
ズッコケエピソードが満載で、今思うともう少し勉強しておけば良かった、申し訳なかったなと思います。
今思い出しても赤面してしまいますが、電話をとる度に周りがハラハラしていました。その後、笑い話にしてくれましたが、ごめんなさいしたいです!

「どうしても許せないこと」

29歳 女性のストーリー
付き合っていた彼氏との話です。
私は当時、アパレルに勤めており、年末年始も休みなく仕事が入っていました。
繁忙期であるお正月を挟んで7連勤という過酷なシフトでしたが、私には頑張れる理由がありました。それは、お正月明け7連勤を終えた翌日が私の誕生日だったからです。
彼氏とは、だいぶ前から遊ぶ約束をしており、一体どこに連れて行ってくれるのかとワクワクしていました。

しかし当日、出掛けるために準備をしていると、彼氏から「風邪を引いたから行けない」とキャンセルのLINEが来ました。
ドタキャンをしているのにもかかわらず、「ごめん」の一言も、ましてや「誕生日おめでとう」の言葉もなく、私はカチンと来ました。
風邪なら仕方ないかと思いつつも、この日のために7連勤頑張ったのにという気持ちが抑えられず、怒った返信をしました。すねれば、謝ってくれるし、埋め合わせもしてくれるだろうと思っていました。

ところが彼は、あろうことか逆切れをしてきました。
俺が風邪をひいてしんどい時に自分ことばかり考えている、心配の一言もないお前は最低だとも言われました。年末年始遊び疲れて体調を崩したくせに、ドタキャンしたくせにどの口が言うんだと大喧嘩しました。

今でも一番納得がいかず、許せないエピソードです。

「嘘みたいなほんとの話」

38歳 女性のストーリー
宝くじのエピソード。一時期、ナンバーズを、当てようと地道に、宝くじ売り場に、行っていた。ある時、私の前に居たマダム(決して派手な成金という感じではなく、しっとりとした艶やかな年配の奥方)が、私に向かって一言。
「あなた、いいわね。もうすぐ来るわよ」
そう言い残し、マダムは颯爽とお買い物へと消えていった。ぽかーん、だった私は、何のこっちゃない、いつも同じ車のナンバーばかりで、挑戦していただけ。今の人、変わった人やったなぁ…ぐらいの感覚だった。そして、いつもの様に、いつものナンバーを書く。もう既に何連敗だろうか。それでも、自分の車のナンバーを信じた。ナンバーズ4の四桁に祈る。それから、当選番号発表が来た。嘘だ。まさか、自分の書いた車のナンバーが当選番号ではないか。まるで、あの時、全てを見透かしていた様な、マダムの言葉が脳裏によぎる。本当に、こんなことあるんだって、あの時は、驚いた。 

「学校や仕事をサボってやったこと」

33歳 男性のストーリー

 私は逃げ癖といいますか、とにかく面倒な物事があったら問題を放り投げてしまう癖があります。小学生から就職した後にも面倒なことから逃げだしてきた経験があります。
 中でも私が専門学生の頃のが酷かったです。そのころ病院で臨床実習を受けてましたが、連日連夜のレポート作成や、実習先のパワハラに近い言動等によって嫌になってしまい、朝に実習先からエスケープしました。県を超えて都内の方にだいたい2週間ほど滞在してました。滞在中は実習生活でできなかったこと、まあ遊びですが漫画喫茶を拠点としてひたすらパチンコに打ち込んでいました。パチンコで得たお金で美味しいものを食べ、浅草や秋葉原等に寄って、ちょっとした観光気分にも浸りました。
 帰るきっかけは両親が警察に相談したと連絡を受けた時、一度帰ることを決意しました。このエピソードが私の人生の中でサボった経験になると思います。

「奇跡だと思った話」

54歳 女性のストーリー
都内に住んでいた時の事です。
ある日、所用で少し遅刻して出勤しました。乗っていた通勤電車はラッシュの時間が過ぎて空いていました。途中東京駅で止まり、私の目の前のドアが開くと、そこになんと幼馴染であり、親友でもあるA子が立っていたのです。A子は地方に住んでいたので、目を疑いました。「何でここにいるの!?」とお互いに驚きあいました。
少しの停車時間で旧交を温め、また別れました。
話によると、これから海外旅行に行くために東京駅で空港行きの電車を待っていたのだそうです。偶然だとしても、この車両のこのドアの位置で、というのにある意味ゾッとしました。この出来事の後にもこの親友とは信じがたいエピソードが起こります。つくづく縁というものはあるのだな、と感じた出来事でした。

「「あなたの番です」のあらすじ」

30歳 男性のストーリー
新婚夫婦の将太と菜奈が引っ越して来たマンションで、交換殺人ゲームが行われる。住人達の謎の死が繰り返される中で、将太と菜奈が犯人特定の為に動き出したが、その最中で将太の妻である菜奈も誰かのてによって殺されてしまう。怒りに満ちた将太はその犯人に復習をする為に、犯人特定へ全力で取り組むのであった。
そして第2章反撃編が始まり、将太の隣部屋に二階堂が引っ越してくる。彼は将太からこのマンションで殺人が繰り返されていることを伝えられ、犯人特定への協力を求められるなか、自身が作成したAIを駆使した犯人探しを始める。そんな中で二階堂が黒島に恋心を抱く。
エピソードも終盤になりさまざまな情報が固まった中でAIが出した答えがまさかの・・・
果たして誰が犯人なのか、何故殺人が繰り返されるのか、最終回に向けて目が離せないストーリーとなっている。

「この職業で良かったなと思う瞬間」

61歳 男性のストーリー
私が大学を卒業して、入社した会社はゴム会社で営業職で就職いたしました。
入社して、数か月後に東京営業所に転勤になりました。
ここで知り合った、上司・先輩は皆さん私と同じ県出身でした。
皆さん同じ県の出身ということもあり、地方から出てきた私たちは、皆方言が一緒で仕事が不安な時に、言葉が一緒というのは、すごく安心感が有りました。
その後、長らく一緒の営業所で仕事を行いましたが、数年後からは数人ずつ人事異動で離れ、又違う人が来るという繰り返しでした。それから時間の経過とともに、皆で会う機会が会社では減りましたが、何年がたっても懐かしく、親交をたやさないようにするために、全国に散らばった人が年に1回旅行に行っています。そこで年に1回会うたびに30年前の職場でのエピソードを昨日の事のように親交を交わしています。

「独身っていいなと思った瞬間」

28歳 女性のストーリー
この年になると、周囲には結婚したり子どもを持った知人も増えてきます。彼らと話しているとよく聞くのは、幸せを感じさせるエピソードよりも、配偶者やその家族・親族への不満です。やはり結婚というのは当人たちのみならず家と家を結びつけるものであり、20~30年もの間異なる環境で育った二人が価値観を擦り合わせていくのは至難の技なのだと思い知らされます。
一方の私は一人暮らしにもすっかり慣れ、自由を謳歌しています。休日ともなれば何時まで寝ていようが、何にお金を使おうが、深夜に帰宅しようが、誰にも文句を言われることはありません。最近では旅行なども一人で行くことが当然になっていて、既婚者となった知人たちのように、誰かと同じ屋根の下で生活することはできないだろうなと思ってしまいます。
人気のエピソード
あらすじ
「あなたの番です」あらすじ
いろんな瞬間
自分は特別だと思った瞬間
結婚っていいなと思った瞬間
独身っていいなと思った瞬間
男または女に生まれて良かったなと思う瞬間
この職業で良かったなと思う瞬間
こんなひといました
わたしの周りで大変身した人
人が豹変した話
わたしの周りの大恋愛
わたしが出会った「さすがにこれは厳しい」という言い訳
これまでに出会った天才
わたしの周りで一番お金持ちの人
あの人と縁を切ってよかった
わたしの周りの結婚できなそうだなという人
今だから言えるごめんなさい
わたしの周りで一番勉強ができた人
わたしがつかれた「優しい嘘」のエピソード
ノウハウ
○○の裏話
業界ならではの話
異性は知らないなと思う話
人間関係
家族に一番感謝したこと
一番ひどい友達からの裏切り
女って本当に恐いと思った瞬間
女同士って面倒くさいと思った話
学んだこと
「こんなお金の稼ぎ方があるんだな」と思った事
これまでの人生で悟ったこと
思い出
忘れられない夏休み
これまでで一番お金を無駄にした話
一番の苦労話
これまでで一番悲しかった時
人生最大の修羅場
これまでで一番驚いた話
これまでに一番勇気を出した瞬間
これまでで一番笑った話
おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出
とっておきのすべらない話
嘘みたいなほんとの話
修学旅行の思い出
今までで一番感動した話
忘れられない夏の思い出
一番おいしかった食べ物
人生で一番贅沢した話
どうしても許せないこと
人を見返してやった話
人生最大の失恋話
死ぬかと思った話
お金さえあればと感じた瞬間
奇跡だと思った話
学校や仕事をサボってやったこと
人生で一番運が良かったなと思う出来事
忘れられない先生の話
今までで体験した一番怖い体験
これはひどいなと思った結婚式
私について
誰かに聞いてもらいたい愚痴
誰にも言っていない秘密
わたしの初恋と、その結末
苦手だったのに得意になったエピソード
わたしがやめられないもの
もっとも尊敬する人
私の変えたい過去
そういえば昔夢見ていたこと
人生が変わった出来事
仕事での大失敗
結婚・恋愛
結婚を後悔した瞬間
夫婦関係を続けていくのが不安になった話