"お母さん" に関するエピソード

「これまでで一番悲しかった時」

24歳 女性のストーリー
私が今までに1番悲しかった経験は、初期流産を経験した時です。
結婚を前提に一緒に暮らしていた彼氏との子どもを授かり、初めは驚きましたが、なによりもこのお腹に命があるということに嬉しさが大きかったのを今でも覚えています。検査薬で陽性が出た時手が震えました。
報告をして彼も喜んでくれましたし、まだ籍を入れていない中で、お互いの両親も喜んでくれました。
産科に通い始め、初めは袋しか見えなかった赤ちゃんが少しずつ姿を見せてくれて、お腹の中で心拍も確認することができました。愛しくて愛しくて、泣きそうになりました。
先生が母子手帳をもらっておいでと言ってくれて、私も母になったんだと感動しました。
心拍も確認できたことを彼と家族に報告し、まだ人の形には見えないエコーの写真を、1日中眺めていました。
妊娠もして、彼と籍を入れることを早め、婚姻届を出しました。不思議な気持ちで、フワフワしてなんだか実感が湧きませんでした。
その2日後、また妊婦健診でした。
もらったばかりの母子手帳を握りしめて、母と一緒に病院へ行きました。
「今日のエコー写真も楽しみだなあ」「診察終わったらお母さんにも見せてね?」と会話をしながら待合室で待ち、いよいよ待ちに待ったエコー。
今日はどんな姿を見せてくれるかなと、ワクワクしながら超音波の画面を眺めました。
エコーをしてくれた先生にはいつものように笑顔がありませんでした。他の先生を呼んできてくださいと看護師さんに頼んでいて、急に不安が襲ってきました。「そんなわけないよね」と何十回も自分に言い聞かせました。
他の先生が来て、エコーをして、「心臓が動いていません。残念ですが…稽留流産です。」とわたしに告げました。頭が真っ白で、直後のことは正直覚えていません。必死に先生の話を聞くふりをしましたが、本当は頭になんて何も入りませんでした。
待合室に出ると、お母さんが笑顔で「赤ちゃんどーだった?」と言ってくれました。
その時初めて涙がとまらなくなりました。沢山の人がいる病院で、大泣きしました。
旦那が迎えに来てくれて、家に帰って旦那と2人で泣きました。「ごめんね、ごめんなさい」と、それしか言えませんでした。
今、わたしは元気な男の子のお母さんになりました。それはとても幸せで、とても愛しいです。しかし、あの時の経験は一生忘れることはありませんし、あの時、お腹に宿ってくれた子のことも、一生愛していきます。
私にとって1番悲しい経験でしたが、一瞬でもあの子の母でいられたこと、今生まれてきてくれた息子の母でいられること、それは私の誇りで、これからもこの奇跡に感謝していこうと思います。

「わたしの周りで一番お金持ちの人」

22歳 女性のストーリー
私の周りで1番お金持ちな人は、中学生のときの同級生で、まず中学生の月のお小遣いが1万5千だったということが衝撃的でした。その子自身はお金持ちアピールとかは全くせずに、ただお小遣いの話をしてた時にそれを普通に話していて、周りにいた友達は、みんなびっくりしていました。
お父さんは医者をしているとは聞きましたが、お母さんも働いており、何をしているかは知りません。
家に遊びに行った時、三階建ての一軒家で、リビングは開放感があり、バーベキューができるくらいのテラスみたいなのがありました。二階の部屋は、普通より少し広いくらいの、部屋でした。3階には、少し狭いけれどシアタールームみたいなのがあって、映画館みたい雰囲気のお部屋がありました。これにもびっくりしました。
その子は一人っ子で、特に習い事をたくさんしてるわけでもなく、ピアノが上手でマイペースな子でした。

「これまでで一番笑った話」

29歳 女性のストーリー
あるレジャー施設に行ったとき、入園料を買うために列に並んでいました。
すると前の若いお母さんが受付の人に「大人(おとな)二人と小人(こびと)二人」と言っているのが聞こえて旦那がぼそっと「あの人、こびと連れてるんやって」と。
私はこらえ切れなくなり腹を抱えて大笑いしました。
大人(おとな)は読めたのに、どうして小人はこどもじゃなくて「こびと」と読んだのかな?と冷静に分析している旦那も面白かったです。
でも、一番は受付のお姉さん!「はい、大人2名とこびと2名ですね」っとサラッと真顔で返してしてプロだなと思いました。
私なら笑いをこらえるの必死でプルプルしていたと思います。
誰か、あのお母さんに「小人はこびとじゃなくこどもって読むんやで」と教えてあげてください。

「今までで一番感動した話」

60歳 男性のストーリー
夕暮れ、私はあの京都の街のタクシーの中でハンドルを握っていました。その頃、私は、なりたてのタクシードライバーで、未だ慣れぬタクシーの仕事に付かれる毎日を送っていました。
私がその職を得た当初、タクシー自由化というものが私が仕事を初めた頃行われ、ました。結果、月日が経つにつれ、街は、タクシーで溢れかえるようになって行きました。

その日も私は客足を見る事も容易にままならぬまま、むやみに車を走らせる中、無情に時はながれ、ひるから夕へと日は傾いていき、やがて、街は黄昏の薄闇に包まれて行きました。私は日報と呼ぶ売り上げの報告の書類にわずかに書いた乗客の売り上げの記録に失望と大きな苛立ちを覚えつつ、あてどもなくただ、一心不乱に客の人影を探りながら車を走らせていました。

そしてさらに、宵闇が街を覆うに連れ、道は行き交う車のライトで眩くなって行きました。「ああ、たまらん、なんとかならんかなあ…。別の場所に変えるかな…」私は、空しく、悲しい思いで胸がつぶれそうになりながら、尚も走りました。「もう今日はだめだ。見込みがないな。もう営業時間も無くなってきたよ」

私が、仕事を切り上げようと、心に決めかけて恨めしく町の灯を睨んでいたその時、遥か遠くに手を振る人の姿が、見えました。「おっ、久し振り!」私は速度をゆっくりと落としながら車を道の傍らへよせて行きました。幼い男の子でした。その子は手提げを持ったお母さんに手を引かれながら、手を振っていました。

「運転手さん止まってくれて有難う」ドアを開けるとその子がひょっこり覗いてにっこりと微笑みつつ言いました。「いや、いや!」思わず、私はその子に笑いかけました。私にはその子が天使に見えました。「宜しくお願いします。」母親が子供に続きました。

私は弾んだ声で、「有難うございます、どちらまで」と叫ぶように言いました。するとその子供のかん高いつやのある声が応えました。「堀川寺の内」。「堀川を北へ向かって、立体歩道橋をくぐってから西に入ってください」母親が続けました。「有り難うございます」私は黙々と、車を走らせました。

車は、行きかう車の灯や町の灯の下、幾つもの通りを過ぎ、曲がり進みました。私はそっと背後の客の様子を見やりました。ルームミラーにその幼い子供が母の膝で眠っている様子が見えました。どんどん車を進め、堀川通に入りさらに北へ向かう内、やがて前方に立体の歩道橋とその先に信号が見えて来ました。

「あの先を左です」母親が言いました。私が車は無事、目的地へ着き小さな公園の前で車を止めると母親は料金を払い、ひじに持ち物を掛け、眠った子供を背負いました。その母は丁寧な優しい声で、礼を言い、出て行きました。親子が路地の奥へ消えるまで私は、静かに見送りました。しばらく私は、黙ってぼんやり町の灯を見ていましたが、やがて、又、車を走らせていきました。

私がある公園の前に来た時、少し休憩を取り車外に出て、しばらく時を費やした後乗り込もうとドアを開けしなにふと、後部座席の床の何かしら不明の物に目が行きました。座席を倒して、私はそれをさぐりますとそれは小さな手提げ袋でであることが判りました。「ああ、あの子たちのか、」私は、少し、疲れを覚えつつ、会社へ連絡して待ちました。

当初は落とし主からの連絡が届いて居らずそのまま仕事を続けるのも厄介なので私は手持無沙汰のままその公園で暇を潰して居ましたが、やがて暫くして母親から連絡が入り、その親子の住所がわかりました。私はとるものもとりあえず、そそくさと親子の降りたところへ向かいました。

私が親子の降りた場所に着くと既にそこにその母親の姿がありました。「どうも済みません、うっかりしてて、あの子が落としたんです。」彼女は、とても丁寧に、恐縮した様子で言いました。「私こそ、ちゃんと見てあげられなくて」私は頭を下げました。私が忘れた手提げを差し出すと彼女は小さな白い封筒を差し出しました。「これは、あの子が書いたものです。読んでやってください。もうあの子は寝てます」

それは、子供用の絵入り封筒で中に一枚の子供用の便箋が入っていました。「運転手さん、届けてくれてありがとう。今日も元気で頑張って気をつけて乗ってね。」私は今もその手紙を机の引き出しに仕舞い続けています。


「苦手だったのに得意になったエピソード」

39歳 男性のストーリー
街で小さい子供に会った時に、コミュニケーションをとれるようになった。
もともと子供が嫌いだったのと、自分が一人っ子で親戚とも離れて暮らしていたため、子供という存在が身の回りにいなかった。だから、公共交通機関やショッピングセンターに子供がいても、できれば関わりたくないし、泣いていることに嫌悪感はかんじなかったけれど、どうしようもないと思っていた。
自分が出産し、子育てをしていく中で、公共交通機関で自分や子供に話しかけてくれる大人に救われることがたくさんあるんだと知り、自分自身も子供の扱いがある程度わかるようになったため、子供と接するということに対して、抵抗感がなくなっていた。
もちろん、泣かせっぱなしや騒がせっぱなしで、何もしない親に対しては許せない存在なので、接すること自体避けたいという気持ちは昔のままであるが、必死になっているお母さんの子供に対しては、協力してあげたいという気持ちのほうが大きくなった。他人の子供に対して、すごくかわいいとか好きとかいう感情があるわけではないが、話したりあやしたりということが苦手だった私だけれど、子供を持つようになって、話しかけたりあやしたりが得意になった。

「もっとも尊敬する人」

38歳 男性のストーリー
両親を尊敬しています。実母はいまは67歳ですがまだ、看護師として働いています。今までずっと同じ職場で長年働いてることがすごいとかんじます。実父は74歳ですが、お父さんもずっと同じ工場で働いてました。今は胃癌になりましたが、手術も四年前に終わって今は抗がん剤とかで頑張ってる姿を見るとすごいと感じます。お母さんはお父さんの面倒みながら仕事をしてさらに田舎に90歳になるら祖父母が2人で住んでるのでたまに帰ったりしてます。すごく行動的でガッツがあると思います。
自分は両親を尊敬してるので、これから結婚とかあると思いますが、そういう女性が魅力的だと思います。
そして、今まで両親にはいろいろ迷惑かけてきたと思いますがこれこらは自分がしっかりして支えていきたいと思います
35歳 女性のストーリー
母です。
小さいころから私に「働いている父を蔑ろにしてはいけない」と教えてくれて育ててくれたのです。
子供の為にパートに出て、私の学費や家族のお金を作ってくれました。
「お家があってご飯が食べられるのはお父さんのおかげ。」
「毎日おやつが食べられるのはお母さんのおかげ。」
「でも、お父さんとお母さんが頑張れるのは子供のため。」
母が泣いているところを見たことが無く、子供心に母は私の自慢でした。
お料理も上手くて、いつも笑顔でスキンシップはちょっと激しめで。
洗濯掃除は苦手だけど、家族のためにいつも頑張っていました。
そんな母のおかげで私は思春期になっても父への反抗期は無かったです。
でも仲良しの家族だと思っていたけど、父が借金と浮気をして離婚しました。
そんな中でも母は泣かずに子供の安全を最優先し、仕事を更に増やし、
昼も夜も働いて私に不自由なく暮らせるように育ててくれたのです。
私はもう子供が持てない年齢になってしまったけど
もし、子供が出来たら母のように守るんだと決めていました。
私が死ぬまで、私の中の1番は母だと思っています。
36歳 女性のストーリー
私がもっとも尊敬してる人は主人のお母さん、つまり義母さんです。車で20分程度の距離に住んでますがこちらの家庭に干渉してくることはせず、良い距離感で接してくれています。私の場合、自分の親が過干渉ですごく口出してくるタイプの人間で主人との結婚式場を探す際もお金は1円も出さないのに口出しが激しくウンザリしてたのに対して義両親はお金を出しても口を出さない2人の好きなように決めてと言ってくれる方々で最初は驚きました。その後も私の親の介護問題なんかで私が悩んでいる時も常々気にかけてくれたり私が居ない所で主人に「今介護問題で精神的にきてるだろうから支えてあげて」など言ってくれたりした様です。その後も決して野次馬根性なんかではなく時折気にかけて話を聞いてくれます。上手く書けませんがああいう人になりたいなと思わせてくれる人で尊敬しています。
23歳 女性のストーリー
私が尊敬する人は、職場のチーフです。10年のブランクからまた、仕事を再開してチーフとして活躍されています。なので約20年近く現役でバリバリ働いているのでとで尊敬しています。そのチーフとすごいところは、まず、職場のみんなをまとめる力があり、女性だらけの職場なので一人一人の悩みの相談やら仕事のことやら全て聞いて改善してくれるとてもいい人です。時には叱ってくれてみんなで「お母さん」と呼んでいる時もありました。それくらい懐が大きく頼もしい人でいつもその人の周りには人が集まっていました。そして、たまに天然な部分もあり歳かなとごまかしたりするところが可愛かったりします。何十歳も歳が離れているのに普通の距離で接してくれてとても暖かい居心地のいい人でした。
24歳 女性のストーリー
私が尊敬する人はお母さんです。なぜかというと、私自身結婚と出産を最近して色々と大変なことが多すぎで、お母さんがこうしていたんだなと思うと、お母さんのありがたさをとても感じました。特に出産は、陣痛から出産まで時間がかかったこともありますが、比にならないくらいに激痛で疲労で生まれてくるまで体がもうボロボロでした。あんな痛みを経験していたお母さん。それから子育ては初めてのことだらけで毎日寝たくても寝れない日々。洗濯や掃除などの家事もしなくてはいけない。そんな日を過ごしているうちにどんどんお母さんはすごいなと感じさせられました。私を産んでここまで育ててくれたありがたみを痛感させられる毎日でお母さんを尊敬しています。
26歳 女性のストーリー
私がもっとも尊敬しているのは、お母さんです。私が産まれてすぐに離婚し、女手一つでお姉ちゃんと私を育ててくれました。夜の仕事をやっていたので、小さいときは「なんでママお仕事いっちゃうの?」と泣いて困らせていました。高校受験のときは、県立に受からないとお小遣い無しだからね!と言われていたので県立高校にいきました。私が高校生になると、家計も大変なはずなのにお小遣いを月に1万もくれました。部活もバイトもしていましたが、卒業したら働いて早くお母さんを楽にさせたいなと、ずっと思っていたので就活も頑張れ良い会社に入ることができました。今ではお母さんは再婚したので、今度は自分の幸せを優先してほしいです。これからもお母さんに親孝行していきたいとおもいます。

「わたしの初恋と、その結末」

29歳 女性のストーリー
私の初恋は3歳の時でした。近所に住んでいた3つ年上の男の子です。その男の子とは毎日一緒に遊んでいました。近所のお母さんたちにも、「将来大きくなったら〇〇くんと結婚する!」と言っていたくらいです。
しかしその子が小学校に上がると、一緒に遊ぶこともほとんどなくなってしまいました。私はバレンタインデーにチョコレートを渡していましたが、ホワイトデーでもらうこともありませんでした。だんだん疎遠になり、お互い顔を合わせても挨拶しかしなくなり、「あぁ、これで私の初恋も終わったのだな」と思ったのを覚えています。
その後は私も幼稚園に新たに好きな男の子ができ、初めての失恋を克服しました。今となってはとても素敵な甘い思い出です。
29歳 女性のストーリー
私の初恋は3歳の時でした。近所に住んでいた3つ年上の男の子です。その男の子とは毎日一緒に遊んでいました。近所のお母さんたちにも、「将来大きくなったら〇〇くんと結婚する!」と言っていたくらいです。
しかしその子が小学校に上がると、一緒に遊ぶこともほとんどなくなってしまいました。私はバレンタインデーにチョコレートを渡していましたが、ホワイトデーでもらうこともありませんでした。だんだん疎遠になり、お互い顔を合わせても挨拶しかしなくなり、「あぁ、これで私の初恋も終わったのだな」と思ったのを覚えています。
その後は私も幼稚園に新たに好きな男の子ができ、初めての失恋を克服しました。今となってはとても素敵な甘い思い出です。

「人生最大の失恋話」

39歳 女性のストーリー
大学生の時から付き合い出した彼。付き合っている間、大きなケンカもなくとても仲良く過ごしていました。お互い一人暮らしでしたが、週末にはお互いの家を行き来して、お互いの生活も大切にしていました。大学卒業を機に地方(飛行機や新幹線の距離)にあるお互いの実家へ挨拶を兼ねて遊びに行きました。卒業後はそれぞれ全く違う職種に就職しました。私はシフト制の休みが不定期な仕事になりましたが、就職してからも、お互いの休みや時間を合わせてデートや旅行を楽しみ、23歳のころ結婚の話が出るようになりました。私の親は少し早いのでは?と言っていましたが、彼のお母さんがとても前向きで、早くおいでー!と言ってくれていました。そんな話が出た数ヶ月後、突然、私の気持ちがわからない。愛されていると思えない、と振られました。順調だと思っていた私は訳がわからず、何故そう思ったのかを尋ねると、就職してから私が仕事優先になりがちだったこと、最終的に記念日を忘れていたことが決定打だったと言われました。
たしかに、仕事はとても楽しくやりがいもありましたが彼のことをないがしろにしたつもりはなくとても辛く、この4年間は何だったのだろうかと思いました。それから数年は引きずってしまい、飲み会や職場での出会いもうまくいきませんでした。

「今だから言えるごめんなさい」

39歳 女性のストーリー
現在は遠距離で一人暮らしですが、実家住まいだった頃、母にすごく可愛がられていたのもあり、お金の面でつい甘くしてもらいがちでした。欲しいものがある時、「お母さん、〇〇が欲しいんだけど、お金がなくて、、、」と、哀れみを前面に押し出して同情してもらい、「しょうがないわね、いいよ」と買ってもらったりしていました。あまり高価なものではなく、罪の意識が重すぎないような気軽なものを何度も買ってもらっていた感じです。挙句の果てには、千円と小銭の両替をお願いするように見せかけ、母の小銭貯金を余分に抜き取っていたこともあります。それも、母のおおざっぱでどんぶり勘定だった性格に付け込んでいたのだと今ではかなり深く反省中で、毎日のように懺悔しています。
19歳 女性のストーリー
これは私が小学生だった頃の話。私の家庭はまあまあ厳しく、パソコンもケータイも与えてもらえず、9時には布団に入らなければなりませんでした。そのおかげで私は健康ですごく元気な少女でした。しかし周りの子はみんなDSやネットを見て夜遅くまで起きたり、他の子がする全ての方がカッコよく見えていました。例えそれが視力検査の途中でも。
私は健康少女だったのでもちろんA、目はすごく良かったです。しかし他の子が目が悪いとか言って違うカッコいい機会で視力を図っているのがとても羨ましく、私は見えないフリをしてわざと間違えました。そして私もカッコいい機会の方に連れていかれカッコ気分を味わえたので満足でした。
すると数週間後診断書が届き、眼医者に行ってくださいとのこと、ヤバイと思いながらも眼医者さんに行くとたまたま私は逆睫毛という症状持ちで、目が悪い筋が通ってしまい、私は眼医者通いに、、
小学校の間三年間ほど、目が悪いフリをするのは辛かったです、そしてお母さん余計な医療費払わせてごめんね。
43歳 女性のストーリー
今だから「お兄ちゃん」ごめんなさい。

お母さんのお財布からお金盗ったのワタシ…なんだ。お財布からお金が減っているのにお母さんが気付いて、即座にお兄ちゃんを呼んだよね。たしかに、前からお兄ちゃんはお金を盗っていたからお母さんが決めつけるのも無理ないと思うけど…あの時の500円はワタシです。ワタシもお金が欲しい時があったんだよ、だからお兄ちゃんと一緒だよ。ただ、お札を簡単に持っていくお兄ちゃんはちょっと…なんですぐバレることするんだろうって、理解できなかったよ。500円ならバレないかなって、で、バレて、自分です、ごめんなさいって言わないのも、結構なワルだよね。大人になってお兄ちゃんの前で潔く反省できたのに、あの時言えなかったがために、未だに潔くなれない自分がいるのよ。

ホントに本当にごめんなさい。

「とっておきのすべらない話」

39歳 男性のストーリー
昔、電車に乗っていた時の話。向かいに女の子の子供連れのお母さんが、2人で座ったいました。なにやら本を子供に見せながら喋っています。良く聞いてみると、「これ何?」っとお母さん。「アップル」っと子供。絵本を見せながら、英単語の勉強をせているんやな?っと思いました。その後も、「これ何?」「オレンジ」「パイナップル」っと、それはそのままやろ!?っと軽く心の中だけでツッコミを入れつつ、何ラリーか続きました。そして、4〜5回目だったと思います。いつもの如く、「これ何?」っとお母さん。すると、子供が、「バーミヤン」。
絶対、それ「ピーチ」やろ!?
っと思わず声に出そうになったのを、抑えつつ、そのご家族が良く行っているんやな〜っと微笑ましくなる様な話でした。

「どうしても許せないこと」

36歳 女性のストーリー
第一子妊娠中の姑の発言

私が23歳の時、第一子妊娠中に切迫流産&切迫早産で安静のため寝たきり生活だった時、姑が私の実家の母に「まぁ、〇〇さん(私)大変ですねぇ、なんでこんな身体なんでしょうね。遺伝ですかね?〇〇さんのお母さんもこんなことになったんですか?ウチは3人産みましたけど、こんなこと全くなかったんですけどねぇ…」と言ったこと!!
うちの母も3人産みましたが、健康な妊婦生活だったそうです!
出産してからも子供の体調が悪かったりすると何かと私のせいにする姑。
出産してすぐ、姑から子供と2人で霊払いにも連れていかれました。
霊媒師には「母親の身体が悪い」と言われ、その場で大泣きしました。
妊娠中、産後のデリケートになっている時にされた、言われた仕打ちは絶対に忘れられません!!
52歳 女性のストーリー
わたしが一人目の子供を出産したときのことです。その前に一回流産をしていましたので、家族みんな出産を待ち望んでいました。
夫は一人っ子でしたので、義母は大変楽しみにしていたこととは思いますが、それは実母も同じことでした。
出産を終えて入院していたときのこと、私はまだ体も落ち着いていない状態でしたのに、義母にこんなことを言われたのです。
「あそこの娘だとわかると困るから、実家のお母さんには病院に来ないでもらって」
びっくりしました。なぜそんなことを言われなくてはならないのかわかりませんでした。どれだけ自分達は立派だと思っているのかと怒りに震えました。この家族と一生連れ添って行くのかと思うと悲しくてたまりませんでした。
36歳 女性のストーリー
声が大きい人が許せないです。
注意をされるにしても、何か話しかけられるにしても、他の人にまで聞こえてしまう配慮がないのかなと思います。
大事な話も筒抜けだし、本人はその人にしか言っていないつもりでも、周りの人には聞こえていて、そこから噂が広がったりします。
声が大きい人のせいで、恥をかくこともたくさんありました。
それに、自分とは関係のない人でも、周りにいるだけで本当に迷惑です。
以前キャラクターショーの時に、声の大きいお母さんが、落ち着きのない子供に「迷惑だからやめなさい!!」と終始言っている時がありましたが、お母さんの声の方がうるさいし、ビデオにも入ってしまうしで、本当に迷惑でした。
声の大きい人は自覚して改善してもらいたいです。

「学校や仕事をサボってやったこと」

27歳 女性のストーリー
中学校3年間、特に最後の1年の後半は殆ど学校に行かず行ってるフリをしてサボっていた。
自転車通学だったため、最初は近くのちょっとしたショッピングモールや図書館で時間を潰していたがだんだん友達のお母さんに会うことが多くなってきて両親にバレないように行かなくなった。
いじめられたとかではなく、ただ勉強が嫌いでサボっていただけで、けど家にいたら頭の固い両親が怒るのは目に見えていたし近くの公園でブランコにのって携帯ゲームをして時間を潰す日々。
ある日、老人が集まって何やらしてるなぁとチラチラ見てたら一緒にやらへんか?お嬢ちゃん学校行ってないんやろ?と1人の老人に声をかけられた。
老人達がやっていたのはゲートボール。
ルールも何にもわからない私に1つ1つ丁寧に説明してくれて会うたびに手招きされて、お茶菓子をベンチで食べたりしながら午前中は私のサボりの時間を一緒に過ごしてくれて嬉しかった。
19歳 女性のストーリー
とても悲しいことがありとてもじゃないけど学校になど行ける気分ではなかったので、もともとその日は休みだった友達といっしょに買い物に行きました。
今までサボりなんてしたことがなく、母もそういったことには厳しい人なので買い物の途中で母のママ友である友達のお母さんなどに会わないか最初のうちはビクビクしていましたが、友達と学校をサボっておしゃべりをしているというドキドキ感と楽しさで罪悪感はだんだん薄れていきました。
学校をサボった理由の悲しいことも友達と共有しているうちにだんだん落ち着いてきたし、たくさん泣いてスッキリできたのもいい思い出です。
そのときに友達とおそろいで買ったバングルは今でも大切な宝物です。
24歳 女性のストーリー
高校1年生の冬に特に理由はないのですが、学校に行きたくない時期があり、ある日の朝お腹が痛いと言って休もうとしました。母親は私の嘘を見破いたのかは分かりませんが休ませてくれず、そのまま学校へ行きました。学校へは駅から徒歩だったのですが、そこで友人と待ち合わせていました。友人はいつも親に車で駅まで乗せてもらっていたのですが、友人と会った瞬間涙が出てきて友人のお母さんも心配してくれました。幸い友人のお母さんは理解ある人で、私がその日学校に行くのが難しいと判断してそのまま友人と私、友人の母でドライブしようと提案してくれました。私の母にも電話してくれ、自宅で休ませると嘘までついてくれました。今思えばなぜそこまで辛かったのかわかりませんが、あの日サボってドライブに連れて行ってくれた友人の母には感謝してもしきれません。
37歳 女性のストーリー
某私立中高一貫校の教員になって6年目のこと。上司とうまが合わず、一緒に仕事することが苦痛で苦痛で仕方なかった頃、あることをきっかけに過呼吸になってしまいました。もう、自分がわからなくなり、母親に「仕事やめて、明日帰るね」と電話しました。母親はビックリしておりましたが、理由もきかず「お母さんがそっちに行くから、とりあえず明日は仕事休んで家にいなさい」と、次の日ほんとうに飛行機で飛んできてくれました。職場には体調不良と連絡し欠勤。お母さんは到着するなり「羽田空港にお迎えきて♪」とのこと。嘘ついて欠勤しているので、罪悪感を感じながらも、少しウキウキで羽田へ。羽田で美味しい中華を食べながら、昨日の出来事、今までの苦痛、すべて話しました。話したら、すっきりして、罪悪感もどこへやら。そのまま、銀座にお買い物。欲しい物思うままに買ったり、お洒落なカフェで休憩したり、、、仕事上、休みがなく(最長3か月休みがなかったことも)今まで出来なかったことを満喫!良い気分で帰宅。帰りに美味しいお惣菜買ってきたので簡単に夕飯済ませ就寝。「明日ももちろん欠勤ね。どこ行こうかね♪おやすみ」こっそり泣きながら寝ました。次の日は、車で海ほたるへ。楽しいドライブ、美味しい食べ物、リフレッシュ最高!!
「これで年度末まで頑張れるでしょ。今年度まで頑張って、きちんとケジメつけて帰っておいで」と言い残し、母親は地元へ帰っていきました。
学校勤務なので、中途半端な退職は良くないと親なりのアドバイス。私も、気分がスッキリし、あと半年の我慢!と割り切って仕事に復帰しました。(復帰というか、体調が良くなった程(笑))
職場には今年度で退職希望を伝え、残りの教員生活耐え抜きました。踏ん切りがついてたので、とても楽な気持ちで働けました。最後の最後まであの上司とはうまが合いませんでしたが、、、
こんな仕事サボりですが、私の人生のターニングポイントにもなったサボりだったと思います。

「人が豹変した話」

42歳 女性のストーリー
いつもは理論的に、頭が良さそうにおしゃべりしていた娘の同級生のお母さん。ある、役員を決めなければいけない会議があり、私は司会者として出席しました。大きな役職なので、なかなか決まらず、立候補が出るわけもなく、時間だけが過ぎていきました。なんとか推薦により、決まりかけたそのとき、「その決め方はよくない!」と言ってきたそのお母さん。いろいろと理屈を言って、変えようとして来ます。(男性女性、それぞれ一名ずつ出さなければいけない役員を、「今時ナンセンスだ!」と吠える。)アタマ差いいので、理屈では勝てず、何度か集まり直したあげく、結局はくじびきをすることになりました。そのくじ引きで、最後はそのお母さんが引き当て、終了したのですが、穏やかな頭のいい人はこんな風になるのかと、怖かったです。
36歳 女性のストーリー
別れた旦那の母親の豹変話。
別れた旦那の母親は、よく言えばおっとり。でも私は嫌な思いをたくさんさせられてきたので、おっとりなんて言葉では片付ける事ができない、ただのバカで気が利かない、自己中心的な人としか思っていませんでした。教養も全くなく、すぐ人に流され、そのくせ頑固でワガママで。家事もできず、料理はいつもスーパーのお惣菜。たまに作るにしても魚を焼きながら何かを炒めたり調理するという、同時進行ができないので、魚を焼くなら焼けるまでずっとグリルの前に張り付いて見ている、そんな感じでした。
でも、旦那にはそれが天然でおっとりにしかうつっていなかったようで、私が色々言われたり、嫌なことがあって報告しても「俺のお母さんはそういうつもりじゃなくて、そういう人だから」でいつも母親の肩を持ち、一度も私の味方はしませんでした。
離婚話の時に、向こうの母親はどうしても私が悪かった事にしたがるので「お義母さんはどうしても私を悪者にしたいんですね」と言ったら「なんだその言い方はー!!頭にくんな!!おい、こんな女早く離婚しろー!!離婚届早く書けー!!」と怒鳴り、元旦那はその姿を初めて見たであろうから「ほら、いつも私言ってたでしょ。これが私に対する態度だから」と言ってやりました。
元旦那の母親は、さすが自己中心的でワガママなだけあり、話も終わらないのに一人帰って行きました。縁を切れて良かったです。

「人生が変わった出来事」

28歳 女性のストーリー
人生が変わった出来事は、娘が生まれたことです。
今まで大切に思う人・ものはありましたが、自身を投げ打ってでも大切にしたいと思うものはありませんでした。それが今回娘を妊娠・出産することにより、ガラッと考え方が変わりました。
妊娠中は些細な衝撃や自身の食生活に神経質なほど気を使い、検診幾たびに「生きているだろうか」「ちゃんと成長しているだろうか」などハラハラしていました。出産後は、いつもと違うちょっとした変化や食べ物、住環境にピリピリと気を張っていて、常に自分は二の次、それこそ娘中心の生活となりました。少しの事で死んでしまう小さい命を前にして、自分の行動一つ一つの責任がいかに重いのかを思い知らされました。
それでも、そのような中で娘が毎日少しずつ少しずつ成長し、出来ることが増え、笑いかけてくれるだけで、辛いと思えることも一瞬で消し去ってくれます。日を重ねるごとに「愛おしい」という気持ちが溢れ、この子の為なら頑張れる、なんでもしてあげたいという気持ちにすらなれるほど娘は一番大切な存在となりました。
このような気持ちになる日が来るとは思ってもいませんでした。
そして両親に対しての気持ちも変わる出来事でもありました。私自身も親となり、子育ての辛さ知り、お母さんもこのように苦労して私を育ててくれたんだと思うと感謝しかありません。
このように私は娘が生まれたことにより、人生が大きくかわりました。
これが私の人生が変わった出来事です。

「奇跡だと思った話」

21歳 女性のストーリー
お金持ち携帯も持ってない歳の時に家族で出かけていたのですが駅からバスで移動した場所でバスで20分ぐらいかかるところで遊んでいたのですが妹とケンカしていじけて勝手に一人で行動し始めました。そしたらお母さんにもいい加減にしなさいと怒られ尚更、機嫌を悪くした私は1人で帰るといいお金も持ってないのでもちろん歩いて帰れるほどの距離じゃなかったのですが私は頑固な性格なので道もわからないままひたすら歩き続けました。
そしたら行く時に乗ったバス停乗り場まで戻ってきたことに気づきそこまで戻れたのは良かったのですが電車も乗れないと家に帰れなくケンカして時間がたったら自分がバカみたいだったなと思うようになりお母さんたちと合流したくなったのですがお母さんがいまどこにいるのかもわからなく知らない人から電話を貸してもらうか迷っていたのですが駅に公衆電話があることに気づきその時は10円はもったいなかったのですがポケットにたまたま5円玉か1円玉が入っていてこれでちょっとでも電話できるかなと考えもしできなくてもお金が戻ってくるボタンで取り戻せばいいなと思いお金をいれやっぱり10円以上じゃないと使えなくお金を戻そうとボタンをおしても全然でてくる気配がなく泣きそうになりながらお金のとこを確認したらなんと10円玉が入っていました。
これでお母さんに電話できると思い電話しました。ですが10円なので話せるのはたったの数秒なのでどこにいるのか聞き今から行くから待っててと言いそのあとは無事に合流できました。今思えばあの時10円玉が入っていたのは奇跡だなと思いました。あの10円玉で本当に助かりました。

「これまでに一番勇気を出した瞬間」

54歳 男性のストーリー
初恋の女の子に告白をしたこと。もう35年以上前の話です。中学校の卒業式の翌日、小学校3年のころから好きだった女の子に告白しようと決めました。自宅から彼女の家に電話をすると、電話に出たのはお母さん。当時は携帯電話なんかないので、自宅の家電に架けるしかないのです。家が近く、毎年誕生会に招待されていたのでお母さんのこともよく知っていました。でも今回ばかりは自分がかけていると知られてはいけないので、偽名を使った記憶があります。
彼女が電話に出て、何を話したかはもう全く覚えていませんが、一言「好きです」という前にあまりの緊張から言葉に詰まり、「ちょっと待ってね」と言って受話器を耳から外して深呼吸し、そのあとに告白をしました。彼女は「えー・・・?」と言い、最後は「また電話して」と言ってくれました。その時はなぜか付き合ってほしいとは言えず、結局その後電話することもできず。
彼女とはその後何度か駅で会ったりして、大人になってから車でドライブデートをしたこともありますが、最も勇気を出したのはそのきっかけとなった告白電話です。

「仕事での大失敗」

26歳 女性のストーリー
私が幼稚園教諭として幼稚園で働き始めて一年目の時、いつもはお母さんがお迎えに来る家庭で、たまたまその日お母さんの都合が悪くてお父さんがお迎えに来たことがありました。
私はお父さんに会ったことがなかったので、名前を聞いてどの子どもの保護者の方か聞きました。その時、見た目が幼稚園児の父親にしては高齢に見えたので、祖父だと思ってしまい、「〇〇ちゃーん、おじいちゃんがお迎えに来たよー!」と大きな声で言ってしまいました。すると、その子に「おじいちゃんじゃなくて、パパだよ」と言われて、必死にお父さんに謝罪しましたが、とても気まずかったです。
お父さんは穏やかな方だったので許してくれましたが、本当に反省しました。
このことがあってからは、初めて会った保護者の方のことは、「おうちの方」と呼ぶようにしています。

「この職業で良かったなと思う瞬間」

60歳 男性のストーリー
夕暮れ、私はあの京都の街のタクシーの中でハンドルを握っていました。その頃、私は、なりたてのタクシードライバーで、未だ慣れぬタクシーの仕事に付かれる毎日を送っていました。
私がその職を得た当初、タクシー自由化というものが私が仕事を初めた頃行われ、ました。結果、月日が経つにつれ、街は、タクシーで溢れかえるようになって行きました。

その日も私は客足を見る事も容易にままならぬまま、むやみに車を走らせる中、無情に時はながれ、ひるから夕へと日は傾いていき、やがて、街は黄昏の薄闇に包まれて行きました。私は日報と呼ぶ売り上げの報告の書類にわずかに書いた乗客の売り上げの記録に失望と大きな苛立ちを覚えつつ、あてどもなくただ、一心不乱に客の人影を探りながら車を走らせていました。

そしてさらに、宵闇が街を覆うに連れ、道は行き交う車のライトで眩くなって行きました。「ああ、たまらん、なんとかならんかなあ…。別の場所に変えるかな…」私は、空しく、悲しい思いで胸がつぶれそうになりながら、尚も走りました。「もう今日はだめだ。見込みがないな。もう営業時間も無くなってきたよ」

私が、仕事を切り上げようと、心に決めかけて恨めしく町の灯を睨んでいたその時、遥か遠くに手を振る人の姿が、見えました。「おっ、久し振り!」私は速度をゆっくりと落としながら車を道の傍らへよせて行きました。幼い男の子でした。その子は手提げを持ったお母さんに手を引かれながら、手を振っていました。

「運転手さん止まってくれて有難う」ドアを開けるとその子がひょっこり覗いてにっこりと微笑みつつ言いました。「いや、いや!」思わず、私はその子に笑いかけました。私にはその子が天使に見えました。「宜しくお願いします。」母親が子供に続きました。

私は弾んだ声で、「有難うございます、どちらまで」と叫ぶように言いました。するとその子供のかん高いつやのある声が応えました。「堀川寺の内」。「堀川を北へ向かって、立体歩道橋をくぐってから西に入ってください」母親が続けました。「有り難うございます」私は黙々と、車を走らせました。

車は、行きかう車の灯や町の灯の下、幾つもの通りを過ぎ、曲がり進みました。私はそっと背後の客の様子を見やりました。ルームミラーにその幼い子供が母の膝で眠っている様子が見えました。どんどん車を進め、堀川通に入りさらに北へ向かう内、やがて前方に立体の歩道橋とその先に信号が見えて来ました。

「あの先を左です」母親が言いました。私が車は無事、目的地へ着き小さな公園の前で車を止めると母親は料金を払い、ひじに持ち物を掛け、眠った子供を背負いました。その母は丁寧な優しい声で、礼を言い、出て行きました。親子が路地の奥へ消えるまで私は、静かに見送りました。しばらく私は、黙ってぼんやり町の灯を見ていましたが、やがて、又、車を走らせていきました。

私がある公園の前に来た時、少し休憩を取り車外に出て、しばらく時を費やした後乗り込もうとドアを開けしなにふと、後部座席の床の何かしら不明の物に目が行きました。座席を倒して、私はそれをさぐりますとそれは小さな手提げ袋でであることが判りました。「ああ、あの子たちのか、」私は、少し、疲れを覚えつつ、会社へ連絡して待ちました。

当初は落とし主からの連絡が届いて居らずそのまま仕事を続けるのも厄介なので私は手持無沙汰のままその公園で暇を潰して居ましたが、やがて暫くして母親から連絡が入り、その親子の住所がわかりました。私はとるものもとりあえず、そそくさと親子の降りたところへ向かいました。

私が親子の降りた場所に着くと既にそこにその母親の姿がありました。「どうも済みません、うっかりしてて、あの子が落としたんです。」彼女は、とても丁寧に、恐縮した様子で言いました。「私こそ、ちゃんと見てあげられなくて」私は頭を下げました。私が忘れた手提げを差し出すと彼女は小さな白い封筒を差し出しました。「これは、あの子が書いたものです。読んでやってください。もうあの子は寝てます」

それは、子供用の絵入り封筒で中に一枚の子供用の便箋が入っていました。「運転手さん、届けてくれてありがとう。今日も元気で頑張って気をつけて乗ってね。」私は今もその手紙を机の引き出しに仕舞い続けています。

「男または女に生まれて良かったなと思う瞬間」

39歳 女性のストーリー
女にしかできないこと、それは妊娠出産だと思う。子どもを育てている間は色んなことで自由ではなくなったり、自分の時間がなくなったり、言うことを聞かない子どもにイライラしたり、これがずっと続くのかと思えてしまうけど、そんな時は一瞬ですぐに自分の手元からいなくなってしまう。子供と手を繋いだこと、「お母さん」と頼ってくれたこと、赤ちゃんを抱っこできたこと、なによりお腹の中にいると実感できた胎動や、出産は大変だけど、一生のうちに一回でも体験できたことがあるからこそ、今の子供との関係の根本にあり、昔を思い出すことで何があっても前に進んで行けると思う。それは女の特権で女にしかできないことで、私が女に生まれてよかったなと思うことです。

「一番おいしかった食べ物」

40歳 女性のストーリー
大好きな焼き餃子。
夕飯が焼き餃子だとテンションがあがるメニューでした。
そんな我が家の焼き餃子は、母の手作りでお母さんの餃子は美味い!!とあまり出てくる料理を褒めない父が唯一食卓に出るたびに褒めていた母の作る料理でした。
そんな我が家は、外食で焼き餃子を食べる機会がなく、私は母の作る焼き餃子は好きなもののそんなにも外の焼き餃子と比べ、美味しいのかと半信半疑でした。
なので、高校を卒業するまで母が作る焼き餃子しか食べたことがなかったのですが、アラフォーになり外で食べることもありますし、自分でも作ります。
パリッとした焼き目。
肉汁たっぷりな餡。
絶妙な味わい。
どれをとっても母の作る焼き餃子を超えたものを食べたことがありません。

「結婚っていいなと思った瞬間」

54歳 男性のストーリー
妻と結婚して25年を迎えます。
妻との結婚のきっかけは、私の実家の隣のおじいさんが世話好きな人で、その人の紹介によるものでした。
その頃の私は、北海道で教員を始めて3年目で、日々の仕事で心が荒み始め、一人で生活していると気が狂いそうな毎日でした。とにかく忙しく、家に帰ると誰かがいて、話を聞いてくれる人を求めていました。
そんな中での紹介でした。
相手は、実家の近所の三姉妹の長女、その女性よりお母さんの方をよく知っていて、安心してつき合いを始めることができました。
一緒に生活してみて、自分の至らない点をフォローしてくれたりして、生活に余裕ができ、仕事に対して余裕を持って取り組めるようになり、周りから結婚して変わったな、と言われるようになりました。
しかし、子供が生まれ妻に余裕がなくなると、フォローが悪態に変わり、家に帰りたくなくなりました。
それでも、私が職場でイジメを受けて、職場に足が向かなくなった時、支えてくれたのが妻でした。鬱と診断され長期で休まねばならなかった私が短期間で回復できたのは妻のおかげです。
独身の頃は、結婚にはあまり関心がなく、話しのできる程度の人しか求めていませんでしたが、結婚して、改めて、自分の危機を救ってくれたりと、生涯の伴侶を実感しています。
人気のエピソード
あらすじ
「あなたの番です」あらすじ
いろんな瞬間
結婚っていいなと思った瞬間
この職業で良かったなと思う瞬間
独身っていいなと思った瞬間
男または女に生まれて良かったなと思う瞬間
自分は特別だと思った瞬間
こんなひといました
わたしの周りで一番勉強ができた人
今だから言えるごめんなさい
わたしが出会った「さすがにこれは厳しい」という言い訳
人が豹変した話
あの人と縁を切ってよかった
わたしの周りで一番お金持ちの人
これまでに出会った天才
わたしの周りの大恋愛
わたしがつかれた「優しい嘘」のエピソード
わたしの周りで大変身した人
わたしの周りの結婚できなそうだなという人
ノウハウ
業界ならではの話
○○の裏話
異性は知らないなと思う話
人間関係
女って本当に恐いと思った瞬間
一番ひどい友達からの裏切り
家族に一番感謝したこと
女同士って面倒くさいと思った話
学んだこと
「こんなお金の稼ぎ方があるんだな」と思った事
これまでの人生で悟ったこと
思い出
学校や仕事をサボってやったこと
これまでで一番笑った話
忘れられない先生の話
人生で一番贅沢した話
おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出
忘れられない夏の思い出
人生最大の修羅場
奇跡だと思った話
一番おいしかった食べ物
人を見返してやった話
人生で一番運が良かったなと思う出来事
人生最大の失恋話
これはひどいなと思った結婚式
これまでに一番勇気を出した瞬間
修学旅行の思い出
お金さえあればと感じた瞬間
とっておきのすべらない話
今までで一番感動した話
これまでで一番驚いた話
一番の苦労話
これまでで一番悲しかった時
これまでで一番お金を無駄にした話
忘れられない夏休み
どうしても許せないこと
死ぬかと思った話
嘘みたいなほんとの話
今までで体験した一番怖い体験
私について
私の変えたい過去
誰にも言っていない秘密
もっとも尊敬する人
仕事での大失敗
人生が変わった出来事
誰かに聞いてもらいたい愚痴
わたしの初恋と、その結末
苦手だったのに得意になったエピソード
わたしがやめられないもの
そういえば昔夢見ていたこと
結婚・恋愛
結婚を後悔した瞬間
夫婦関係を続けていくのが不安になった話