"人生" に関するエピソード

「これまでの人生で悟ったこと」

49歳 男性のストーリー
お金持ち、肩書、権力、名声、名誉この世的に立派だと思われ成功者と言われる
要素ですが、その人はどういう人かという視点で見ると避けて通りたくなるような
方が大部分です。結局、人間の価値とは内面的に「自分はどういう人間か」が
全てだと思います。
そういう方は得てして表に出さないものです。ごく普通の人と変わり
映えのしない生活をしているものです。
しかし、表面的だけの成功者のムレには決して近寄らないものです。
あくまで表面的に当たり障りなく付き合う程度です。
なぜなら、人はなぜ生きるのか、生きる理由、生きる目的などの根本的かつ
究極的人生の意味を知っているからです。
人生の目的に合致しない事柄は色あせて見えるものです。
そんな方に出会ってみたいものですね。

「人生が変わった出来事」

36歳 男性のストーリー
猫を飼い始めて人生が変わりました。
5年前までは仕事もプライベートもパッとせず、毎日終電まで残業して、休日は寝てばかりのその日暮らしのような生活をしていましたが、当時付き合っていた彼女と別れたことをきっかけに、長年飼いたいと思っていた猫を飼うことにしました。
猫を飼おうと思った途端に職場近くのカフェで猫の里親募集をしていたので応募し、かわいい女の子の仔猫を譲り受けました。
猫を飼ってからは今までよりも自宅にいられるように転職して年収も100万ほどアップし、猫つながりで猫好きの彼女もできました。
猫自体も可愛くて毎日癒されますし、価値観の合う恋人がいることでプライベートも充実しています。
猫のために働き方や生活のリズムを変えたことで本当に人生が変わりました。
49歳 女性のストーリー
日本で大手企業に勤務していましたが、思い切って辞め、海外に移住した事です。日本にいた時の私は、何に対しても文句を言っていた様に思います。私は発展途上国と言われる国に住んでいますが、日本の様に恵まれた国に生まれ育ってきて何で文句ばかり言っていたんだろう?と今になって思います。
お墓参りはともかく、日本にいた時は先祖の仏壇に手を合わせる事も無く、スイッチを押せば電気が点いたり、蛇口をひねれば水が出る、毎日のご飯があるのも当たり前と思って生きてきました。
ですが、この国ではこれらの事が当たり前ではないのです。
交通事情にしても、日本に帰ると、こんな便利な事ある?って思います。
この様な毎日を過ごして行く中で、自分の身の回りにある物に感謝する様になり、物を大切にする気持ちを持ち、今日も一日無事に過ごせたと先祖に感謝する様になりました。
自分としては人間として大きく変わり成長したと思っています。
38歳 女性のストーリー
高校生の頃、ちょっとヤンチャな女友達といつものようにカラオケに行ったとき。
私が気分良く歌っていると、友達にふざけて足でマイクを軽く蹴られました。
その拍子にマイクが私の前歯に当たり軽く蹴った割には、物凄く痛くて脳天まで痛さが響き、その時は何も言えませんでしたが、私が痛がっている姿を見てイタズラが成功したのを笑いながら見てました。

そんな友達だったので、その後考え方の違いで友達を辞めましたが、なんとその一年後ぐらいに歯茎に膿が出てきたので歯医者に行くと、前歯が折れていました。

マイクが当たった衝撃で前歯が折れていたのです。そのまま放置するわけにはいかず、歯茎を切って抜歯しブリッジにしましたが、保険の差し歯では色が変色してくるので、自費でセラミックにしましたが、セラミックが割れてまた自費でやり直しましたが、
私はその友達だった人に保障もしてもらえず、お金がかかる人生になってしまいました。

次割れたら入れ歯です。そうなったら、まだ若いのに見た目最悪なので、前歯で硬いものを噛むのが凄く怖くなりました。

52歳 女性のストーリー
結婚して4年目の春、風邪をひいたと思い市販の風邪薬を飲んだところ熱と発疹が出て、慌てて病院に行きました。今度はそこで解熱剤が出され、良くなるならと使用したところ症状は悪化するばかり。ついには大学病院に行くことになりました。
大学病院で受けた診断はスティーブンスジョンソンズ症候群。重症の薬物アレルギーです。それまでアレルギーとは無縁の生活だったのに、生活が一変しました。4ヶ月近く入院し、以降も様々な後遺症に悩まされつつ生活しています。
病気になって、意外にも良いこともありました。入院中に色々な相談ができる知り合いができたことです。お互い病人なので、健康な友人とは違い、弱音も吐けるし情報交換したりはげましあったり。これからも仲間と頑張ります。
34歳 女性のストーリー
付き合って半年で同棲した彼氏と、同棲の前に両方の両親と顔合わせして、これで結婚まで行くんだろうなと思っていた矢先に同棲から1年半すぎたある日正月休みで家にいた時に、薄々は感じてはいましたが、同棲解消別れましょうという話が出てきました。わたしは予想はしていましたが、本当にそうなるとは思っていなかったので、涙で涙でパニックになっていました。同棲していたのは職場から近くのところで家賃も高かったので、別れてわたしが実家に戻ったら、彼氏もここの家を出て実家の近くで一人暮らしするという話でした。泣き喚いても仕方ないと思いその日に荷物を準備して、翌日にわたしは実家に戻りました。彼もその1ヶ月後に退去したのですが、退去にかかる費用が足りないので、出して欲しいと言われ、8万円出しました。そして、半年後、もう忘れようと頑張っていた時に電話があり、泥棒に入られたので、お給料全部なくなったからお金かして欲しい。他に頼る人がいなくて。と言われたので、20万円貸しました。毎月返すという口約束でしたが、だんだんと職場でも喋らなくなり、お金も結局帰ってないまま現在に至ります。教訓は。人にはお金は貸さない。ということです。
43歳 男性のストーリー
サラリーマンを20年続け、独り身、親も元気、預貯金も十分、今の仕事に価値観が見いだせない(このまま続けていいものか)と考え、思い切って独立開業を行いました。
それまでは、事務員として働いていたのですが、開業した職種は飲食。飲食業界でのバイトや就職経験はなく、本当にイチからのスタートとなりました。
結果として、2年半で閉店。少し借金を負うことになりました。
現在はまた、事務員をしており、収入も以前の事務の時に比べると、1/3以下になっていますが、充実しています。
それは、開業してからの日々の経験、それを経験したからこその考え方の転換。様々な貴重な体験をすることができ、開業は失敗とも思えるのですが、自分の成長という部分に関しては成功と考えています(前のサラリーマンの時は、こんな考え方になどならなかった)。
この経験により、考え方というものに変化が生じ、様々なことが起きてもへこたれない、柔軟な考え方ができるといった、強いメンタルを手に入れることができました。
19歳 女性のストーリー
私は小学3年生の頃に将来の夢ができた。それはホテルで働くという夢。きっかけは遠足で訪れた職業体験ができる場で「ホテルスタッフ」という職業を2回も体験したこと。その時に初めて興味を持ったわけではなく、家族旅行やなんやらと宿泊施設に行くことが多かったので、そのたびにベッドメイキングや受付の仕事に興味を持っていた。短い時間ではあったけれど、体験してみるとこの職業になりたいと強く思うようになった。サービス関係の専門学校ではなく、4年制の大学を選んだ今も夢は変わらず自分の中にある。ただ、大学で福祉を学んでいるため、ホテルと福祉の仕事両方に携わりたいと考えいる。まだまだ具体的なことは決めていないが、職業を体験した小学生の遠足は私の人生を語るうえで最も大きな出来事かもしれない。
52歳 男性のストーリー
なんと言っても東日本大震災でしょう。テレビで見た家や、田畑などが黒い波に飲み込まれていくシーンは頭から離れません。すべての財産や生命をのみこす自然災害の恐ろしさに、働くとは何か?家を建てたり貯金をしたりする意味に絶望を感じました。当時運転手をしていましたが、テレビで見た橋の所でのトラック2台が絡む接触事故らしきせいでその道が通告止めになっており、事故処理の警察や、運転手が結果的に助かり、そいつらのせいでそのみちにたどりつけずなくなった方を思うと言葉になりません。せめて動けそうなトラックを片方に寄せて通れるようにしておけば何十もの命がすくわれたのではないか、と思い同業がいやになりました。とらッカスは消えろ。
31歳 男性のストーリー
自分が中学生に上がるまでは、勉学に勤しみ、部活動に励むというその日その日をなんとなく生きていく人生でした。
そんなある日、「技術」という選択授業で簡単なロボットを作り、大会に出るというものがありました。授業が始まり、お手本となるロボットを見て、自分なりに設計して実際に制作を始めるというものでしたが、初めて見るとある程度の制約はあるものの、自由度が高い作業にどんどんのめり込んでいる自分がいました。大会では2回戦敗退ということであまりよい結果を残せませんでしたが、その日からモノづくりの楽しさに気が付き将来はモノづくりに携われるように進路を進めようと決意しました。
実際にその後の進路は工業高校に進み、国内ではレベルの高い工業大学へ進学し製造業の開発部門で日々製品開発業務に勤しむ生活を送っております。中学生の時のきっかけがあって本当によかったと思っています。
31歳 男性のストーリー
仕事をして8年。同期から誘われた違う仕事。最初は少し考えましたが、これにより良い方に人生が変わったなと思います。それまでは朝から晩まで休む時間もなく働く日々でしたが、働く時間も少なくなり給料も倍ほどまであがりました。また海外旅行などにも行けるような人生になりました。
あのまま以前の仕事を続けていたらそんなことにはならなかったでしょうし、本当に感謝してます。
人生が変わるキッカケはいつやって来るかわかりません。そのキッカケをチャンスと捉えて行動出来るか、出来ないかが、本当に大事になってきます。簡単には人生は変わりませんが、変えようと思った人には間違いなく変えれるものです。

自分の人生を変えるのは自分。
43歳 男性のストーリー
私は中学生の頃に不良グループから使い走りとしてコキ使われていました。高校に進学すれば不良グループと離れられる。そんな希望を持ち中学三年間を過ごしました。高校生になると新しい友人達に囲まれながら青春を謳歌し、次第にヤンチャな友人も増えて行きました。高校一年生の夏休みに地元の中学校卒業を卒業した同級生と会うことになり待ち合わせ場所に行くと、同級生はバリバリのヤンキーに変身していて既に高校は退学になっていました。この同窓生と私は夜な夜なつるむようになり、気が付くと私自身もヤンキーになっていました。夏休みが終わろうとする頃、ヤンキーの同窓生の提案で私を中学生時代にコキ使いまくったヤンキーグループに復讐しようと提案があり、悩んだ挙げ句呼び出しました。勢いよく威圧しながらやって来るかつての敵達。体に染み付いた恐怖感を抑えて私も威喝して一人と喧嘩になりマグレで私は勝ってしまったのです。その後、立場は逆転して敗退した彼等は私と同窓生の使い走りとして高校三年間を過ごしました。因果応報。私の人生が変わった瞬間です。
30歳 男性のストーリー
現在の介護職員として資格を取得して働いています。
元々は建築関係の仕事をしていて介護職とは汚いし、雑用の仕事だと思っており無縁の仕事だと思っていました。
とある日介護に疲れた母親が家を出て行方不明になりました。 捜索願を出したりSNSで拡散しましたが見つからなく、自分がじいちゃんの世話をする事になりました。 何もわからないまま訪問ヘルパーの人に介護を教えてもらい徐々に人の体に触るということが出来るようになりました。
半年が過ぎ母親が帰ってきて、その後すぐにじいちゃんが病院で亡くなり俺は母親にキレました。 1年間母親とも会わなくなり、「介護って家族でもいなくなる人がいるんだな・・・」って少し残念な気持ちと、腹立たしい気持ちが募り学校に通い資格を取得しました。 色々ありましたがあれからもう2年前たちます。建築の仕事も転々としたりしてたので今は介護職員として働けていることが満足です。 良く良くは自分の親の事くらい子供がしっかり見られるような施設を作ったり、介護を変えていきたい。そんな思いで今働いています。 この先どうなるかはわかりませんが、
あの時じいちゃんの事を最後まで看取って人生が大きく変わったので本当感謝しています。つまらない話ですが一生忘れられない出来事の一つです
32歳 女性のストーリー
結婚4年、子供なし、
セックスレス、
主人とは会話もほとんどなし、
地元から離れた田舎の土地で
何のために結婚生活を続けているのか
わからない状態でした。

そんな時、
職場のお客様で凄く素敵な方に出会ってしまったのです。
始めはお客様の中の一人として
きちんと距離を取らないとと思っていたのですが、
気持ちが押されられなくなり
男女の関係になりました。
29歳の年の差、彼も私も結婚をしている
W不倫…
それでも私には彼が心の支えでした。

彼と一緒になれないのは承知の上、
でも今の意味のない結婚生活を続けていたくはない…
だけど、金銭的にすぐに家にを出ることも出来ない…
そんな私の気持ちを察してか、
彼が離婚の後押しをしてくれたのです。

新しくマンションを借りてくれ、
生活の手助けをしてくれました。

家を出てから3ヶ月過ぎたころ、
無事に離婚が成立し、
地元へ帰る準備も彼のお陰ではかどり
重荷から解放された気持ちで
就職活動も精力的に取り組めています。

友人たちからも顔つきが優しくなったし
いきいきしていると言われ、
本当に離婚して良かったと思います。

彼に出会えなければ
今も苦しく寂しい結婚生活を我慢して
続けていたかもしれません。

不倫だと世間からは
否定される関係ではありますが、
彼に出会った日が
私の人生が変わった瞬間でした。
43歳 女性のストーリー
新卒で勤めた会社を1年と数ヶ月で辞めて、兼ねてから夢であった英語圏での生活を叶えるためにオーストラリアにワーキングホリデーに行った。学生時代にもホームステイや海外旅行の経験はあったが、あらかじめしっかり計画された安全なものだったが、ワーホリではその場その場で自分で選択していかなくてはならないことばかりで、一人旅の基盤ができた。オーストラリアを長距離バスでぐるりと一周し、旅の醍醐味を知ってしまい、ワーホリビザなのに仕事はほとんどしなかったに等しい。
帰国後も、3日以上休みがあればすぐ海外へ行く生活を送っていた。おかげで、仕事もよく変えた。それまでは、お堅い性格だったが、色々な国の人と出会い、柔軟な考え方ができるようになった。たくさんの人が親切にしてくれた。だから、身近な外国人には、親切にできる。貴重な経験をした。
39歳 女性のストーリー
人生が変わったと感じた出来事は、出産を経験したことです。自分が母親になるとは想像もしていなかったので、妊娠が分かった瞬間、妊娠検査薬で陽性反応を見た時の衝撃を今でも忘れません。赤ちゃんがお腹で育ち、出産するというのは頭では分かっていたものの、実際どうやって成長していくのかは、妊娠した女性しか分かりません。ある程度月数が経過して赤ちゃんの胎動を初めて感じたとき、本当にお腹に赤ちゃんがいるんだなと実感しました。出産は2回経験しましたが、1回目は何も分からず丸一日かかっての出産でした。赤ちゃんが取り出されるその瞬間、痛みが一瞬で吹き飛び、我が子との対面に感動しました。守るべきものが出来た、そんな覚悟を決めた出来事でした。
27歳 女性のストーリー
独身だと思ってお付き合いしていた方が既婚者で、知らない間に不倫関係なっていたことがあります。
そのことが奥様にバレて夫婦間で修羅場化し、私も呼び出され何度か話し合いをしたことでお付き合いしていた方が魅力的に感じなくなり、結果別れることになりました。
そんな出来事があったせいで精神的に参ってしまい、現在の主人を友達に紹介してもらい相談にのってもらっていたらお付き合いすることになりました。
主人とは相性が良く、結果的にデキ婚をし幸せな家庭を築くことが出来ました。
現在では子どもを3人授かることになり、まさか自分がこんな人生を歩むとは思いもしませんでした。
あの時不倫関係だったことが発覚しなければ、今でも依存した健全でないお付き合いをしていたかと思うとゾッとします。
34歳 女性のストーリー
長男が発達障害グレーの診断を受けたことで、「発達障害」や「療育」について自分自身でも学ぶようになりました。
発達障害の特性を理解した上で、長男と接するようになったことで、それまでイライラ続きだった行動も、なくなったりと、接し方ひとつで大きく変わってくることがわかりました!

それまでは教育についてまったく興味がなかったが、専門的な知識も含め今後も学んでいきたいなと思っています。

「発達障害」と聞くと、マイナスなイメージもあるかと思いますが、子育てにしっかり向き合おうと思うきっかけになりました。

また、発達障害の子は興味のあることに関してはとてものめり込みます。
何も出来ないのではなく、特性を活かすことで、将来の仕事にも繋がるような能力を秘めているのではないかと思います。





42歳 女性のストーリー
私はあまり結婚願望がなく、ずっと独身のままでいいと思って生きてきました。
20代で犬を飼い始め、さらに犬に愛情がいってしまいなんでもかんでも犬優先の生活になっていきました。
お付き合いする人ができても、愛犬が寂しがっていると心配になり早めに帰ったり、予定をキャンセルすることもありました。
もちろんそんなことをしているのでお付き合いも長続きするわけもなく犬中心の人生でした。とはいえ、犬の寿命もそんなに長くなく、10年でいなくなってしまい、そのあと急激に独りが寂しくなりました。
その後、一人の人生は考えられなくなり、婚活を経て結婚しました。今思えば、愛犬に人生を考えされてくれたように思います。今の私があるのは愛犬のおかげです!
64歳 男性のストーリー
私の人生を変えた出来事は、突然の脳出血になって、左半身に麻痺が残り人生設計が代わってしまったことです、今まで行っていた仕事を辞めることになり、退院後はデイサービスでのリハビリが続きましたが、それも思うように良くなることもなく、今は障害者の支援施設に通いながらの生活になっています。病気になったのは人生も終わりに近づいた57歳の時でした、これから老後のことを考える時期に収入がなくなってしまったのですから、大変なことになってしまったのです。今の障碍者施設の給料と、年金だけでは生活することは難しのがほんねです。これからは生活保護の生活になることも考えて暮らしている毎日、楽しいはずの老後もすべての予定が一瞬で変わってしまったことです。
30歳 女性のストーリー
学生時代の私は学校、バイト、サークルとアクティブに動き回り、好きなものを食べて、休みたい時にはゴロゴロし、夜更かしも平気なタイプでした。
ところが就職した会社で、先輩社員に「事務職は太るよ~」と言われた事が全ての始まりでした。
先輩としては悪気のない、何気ない言葉だったと思います。
しかし、私の中では太るのはイヤだという思いが支配しました。
それからは痩せ中心の生活になりました。
幸いだったのは仕事が比較的緩い会社だったので、クビにならなかった事です。
会社に行く以外はひたすら身体を動かし、しかし、食事は減らしました。
少しでも痩せていないと気分が落ち込みました。
最終的には体重が20キロ代まで落ち、流石に死ぬかもと思い、治療を始めました。
あれから数年。今ではすっかり健康になりました。しかし未だに月経不順で子供が出来る可能性が薄いです。改めて健康の有難味を知りました。
64歳 男性のストーリー
私は障害者です。昔はスポーツ大好きなスポーツマンだったのですが、障碍者になり、スポーツもできなくなったのですが、そこで私が出来る障害者スポーツを探したのです。そこで出会ったのが、わが町にある、障碍者団体なのですが、もちろんスポーツもしていますが、いきなり団体の役員となってしまったのです。そして、そこで出会った一緒に役員をやっていた女性、彼女は全盲です。全盲でも活動的な彼女ととの出会いが私たちを変えてくれたのです。年齢も一つ下と物の価値感も同じような年代話は合います。お互い一人での生活をしているので、思い切ってお付き合いをお願いしたのです。答えはOKでした。それからは、二人だけの時間を作り人生が楽しくなってきたのです。あの時障害者団体と巡り合わなければ、なかった話です。
24歳 女性のストーリー
3.11のとき私はディズニーシーにいた。
友達9人くらいで楽しんでいたが、地震は起きた。
地震が起きたとき私はトイレにいた。
揺れ始めは立ち眩みかと思ったが一緒にトイレに行った友達が私の名前を叫んだのでこれは地震だとわかった。
家族とも連絡が付かず、家の状況、外の状況が今どうなっているのかがわからなかった。
ワンセグから見れる情報は津波や火災であり、自分の家もそのような状況なのかもしれないと思い不安に思った。
夜になり長い長い公衆電話の列に並び、ようやく家族と連絡を取ることができた。
家は無事で安心した。
しかし、その日は家に帰ることができず、レストランで宿泊した。
次の日家族が迎えに来てくれて、帰ることができた。
帰る途中見た景色は、電柱が倒れかかっていたり、駐車場が液状化で水没状態だった。
家に帰っても地震はなかなかおさまらず、テレビでも地震が及ぼした影響、津波の映像が連日放送され、もうやめてほしい。普通の生活に戻りたい。と思った。
今までは地震に恐怖を感じることはほとんどなかったが、それから地震に敏感になり、防災用の荷物を用意したり、防災用アプリを取ったりしている。
また、いつ首都直下地震が起こるかわからないといわれており、恐怖を感じながら生活している。
20歳 女性のストーリー
私の人生が変わった出来事は、『ダイエット』です。ダイエットをしたおかげで周囲の態度が激変しました。まず私の体重歴を簡単にお教えします。
私は生まれた頃から小学校中学年までは標準体重で過ごしていた一般的な女子でした。
しかし、小学校5年生の頃仲の良かった友達と喧嘩をし仲間外れにされてしまいます。そのストレスから暴飲暴食が続き、気づけば体重は89キロになっていました。人生で最高記録の体重です。太ったせいで肌は荒れ、今まで着ていた服もピチピチになってしまい男子生徒からの”いじめ”に合いました。先生から気にしなくても良いからねと励ましもあったおかげで不登校にはならずに済みましたが、体重は変化なしに小学校を卒業し中学校に入学します。入学式当日、新しい制服に身を包んだ私は鏡に写る自分を見てあろうことか『自分に似合っている。可愛い。』と思っていたんです。
しかし、入学式が始まり入場の時、男子の先輩がニヤニヤとこっちを見ているのが分かりました。なんだろうと思った私は気にせず入場をしようと思いましたが、その時『すごいデブが入学してきたぞ。やべぇ、床抜けるぞ。』という馬鹿にした声が聞こえてきたんです。明らかに私に向けて言っている言葉でした。私はその時初めて『自分ってそんなに太っているんだ』と気づきました。
そこからの私は行動に移すのが早かったです。文化部に入部しようと思っていましたが、運動部に入部し適度な運動と食事制限をしました。部活が休みの日は、ランニングと筋トレをし89キロあった体重を1年で52キロまで落とすことが出来ました。
痩せた後は、周りの先輩や男子の目が変わり馬鹿にされるどころか頑張ったなと褒められたり細い羨ましいと羨望の眼差しを向けられるようになりました。
今では、一度は振られた初恋の人に告白されて付き合って2年が経ちます。
人生を変える出来事は人それぞれ色々あると思いますが、私は『ダイエット』のおかげで自信や前向きな考え方を手に入れ、愛する彼と一緒になる事ができました。頑張って良かったです。
27歳 女性のストーリー
私は中学校の時に全校生徒からイジメられていてんですが
イジメ事態が大変で無視されたり
ばい菌や触ったら呪われるとまで言われて学校に行けなくて不登校になったんですが
中学2年の時に担任の先生に中学校だけど
このまま行くと中学で留年すると言われたんですが
長時間学校に居ると気分悪くて学校早退したりしていて
学校の先生と私と親で話し合って
不登校など何らかの理由で私と同じで学校にいけない人が大勢いる施設に
実家から通っていたんですが周りに居る人は同じ悩みが合ったので
すぐに仲良く慣れて施設のスタッフさんも色々相談に乗ってくれて
少しづつではあるんですが、
施設に通いながら、学校にも少しづつ行けるようになりました
最初は施設に行って居ても、学校に行こうとすると
足が動かなくて泣きそうになりながら行っていましたが
施設のおかげで学校も無理しなくても通える用になりました。
55歳 女性のストーリー
仕事中、クモ膜下出血で倒れ救急搬送された。その時てんかんの発作を起こしていたらしく、運転免許取り消しとなった。幸い、後遺症もなく退院できたものの、それまで、配達の仕事で生活を支えてきたのに、一気に収入が半分近くまでさがり、シングルマザーでまだ大学生と高校生の息子をかかえ、これまでの借金もあり、生活は一気にどん底に。それ以前に、社会復帰もできるかどうかさえも不安な状況。一か月の入院で筋肉はゼロに。無職にはなりたくなくて、焦る日々。半分の給料にも涙を呑んで辛抱するしかなくて。あの時死んでいたほうがよっぽど楽だったと思う日々。それは今でも毎日思う。時を戻せるのなら、やり直せるのなら、やり直したい。子供達との生活をちゃんとやり直したいと、願う。もう戻せないけど。
38歳 女性のストーリー
人生が変わった出来事は子供を出産したことです。
三人の子供がいますが、一番人生が変わったのは一人目の出産です。出産時、まわりに出産経験者が少なかったこともあり、子供を産んで育てるということにいまいち実感がありませんでした。
出産して驚いたことは赤ちゃんが自分では眠れなくて泣くことです。成長すると自分で眠ることができるようになったのですが、生まれたての赤ちゃんにも眠いとかおなかがすいたとか、何となく不安だとか、色んな気持ちがあり、大人が思う通りにならないことがわかりました。
仕事も順調で、それほど苦労をしたことがなかったので、初めて赤ちゃんを産んで育てる経験は目から鱗が落ちる経験でした。
子育て以外でも人付き合いのなかで他人を自分の思う通りにすることは難しく、どう折り合いをつけていくが大切だということを今も肝に命じて過ごしています。
46歳 女性のストーリー
私は大学院で、臨床心理の勉強をしてきました。大学院を修了し、実務経験を積んだ上で、臨床心理士の試験勉強をしました。かなり一生懸命勉強しました。1次試験が受かり、2次試験も通りました。

臨床心理士の試験に合格したことが、私の人生を変えました。就職活動をしても、急にポンポン受かるようになりました。そして、それまでは精神科デイケアで修行を積んできましたが、就職活動をして、念願の学校でのスクールカウンセラーのお仕事に就くことができました。

スクールカウンセラーのお仕事を始めて、子どもの臨床に携わることができるようになりました。臨床心理士として初めてのお仕事になります。日々いろいろ考えながら、悩みながら、楽しみながら、仕事させていただきました。
27歳 男性のストーリー
社会人になり、新潟で働くことになりました。今まで、実家をほとんど出た経験がなく、初めて知らない土地での一人暮らしです。一年くらい過ぎた頃、当時付き合っていた彼女と別れ、別の女性と付き合うことになりました。しかし、その方は3児の母で、結婚もしています。その方はとても素直で優しい人で、最初はあまり会わなかったのですが、徐々に会う回数も増えていき、次第に一緒にいるのが、連絡を続けるのが当たり前になっていました。そして、自分はこの人と一緒になりたいと思うようになりました。しかし、一緒になるには色々なハードルを越えなければなりません。離婚のこと、子供のことなど彼女は真剣に悩んでくれています。こんなに大切にしたいと思った人に出会ったのは初めてで、今も返事を待っています。
30歳 女性のストーリー
飼っている犬が意識不明の重体になった。原因も不明、脳が影響しているらしく、下手に検査もできなかった。毎日仕事と動物病院の往復。ICUに入っている2歳の天使が、意識もなく腕の中でぐったりしているのに毎日泣きながら過ごした。治療の続行と安楽死、本当に決断を迫られた。しかし、ある日突然立つことはおろか意識もなかった愛犬が、医師が朝様子を見にICUをのぞきみると、愛犬が立ち上がっていた。それまでにけいれん発作を併発し、その発作の動きでICUの壁に頭を強打しぽっかり皮膚がうげたり、輸血を小さな体に5回も行っていたので、医師も驚き、電話をくれた。会いに行くと、昨日まで意識もなかったわが子が、立ち上がり尻尾を振っていた。そのまま愛犬は回復した。後遺症とまではいかないが、歯が抜けてしまい、犬歯2本になってしまったのと、度重なる採決で剥げができてしまったが、生きていてくれるだけでいとおしい。腹が立つこともあるがペットではなく家族として愛犬に向き合っていることを再実感し、人生が変わった。
59歳 女性のストーリー
人生が変わった出来事と言えば、私にとっては長年勤めた会社を辞め、東京を離れ実家のある神戸に移り住んだことです。
東京での生活は管理職だったことや、何よりも社長が熱血漢で仕事に厳しく、徹夜で会議等も珍しくない状況で、とにかく仕事づくめの日々でした。
1日平均12時間以上も会社に拘束された生活は、ハードでしたがやりがいもあり、充実したものでした。
そんな仕事人間だった私が親との生活を選び神戸での転職活動を通して知ったのは、あまりにも世間知らずだったことでした。
当たり前ですが、50歳を越えての転職は厳しく、書類選考で落ちることがほとんどでした。
また、面接までいっても根っからの仕事好き人間のため、やる気満々で挑むと相手に引かれ「そこまでやっていただかなくても」という空気が漂った苦い経験もあります。
しかし、今は無事働き場を見つけ、神戸の美しい海や山の夕景を観ながら帰る道すがら、東京から神戸に戻って良かった、家族と暮らせる幸せな日々に感謝の毎日です。
72歳 男性のストーリー
サラリーマンをやっていました。60歳で定年退職し、62歳まで嘱託職員として働きました。後半は役員になっていたのでそれなりの報酬もありましたし、退職金もそれなりにいただきましたので退職後は海外旅行へ行ったりゴルフをやったりしてのんびり暮らしていました。
ところが3年も経つと蓄えがほとんどなくなっていました。これは家を売ってアパート暮らしを始めるしかないと一時考えましたが、働けるところがあれば働けばいいと考え直しました。
高齢になってからの就職活動は難しいと思っていたのですが、7〜8社目くらいで仕事が見つかりました。個人事業主としての配送の仕事です。慣れないうちは失敗ばかりして大変でしたが、慣れてしまえば気楽で自由度があり私にとっては最適な仕事です。
更に時間に余裕があるので副業を始めました。
今では何とか生活を維持してコツコツ蓄えも始めています。とは言え自分がこれ程働き者だとは思いませんでした。人生が変わった感じがしています。
32歳 女性のストーリー
運動をほとんどしたことがない私がフルマラソンに挑戦をしました。10キロもまともに走ることができなかった私が、半年かけて練習をしました。筋肉痛になりながらも日々走り込みをしました。練習をしていたら体重がどんどん落ちていき、ベスト体重になることができました。
フルマラソン当日になりました。練習では25キロまでしか走ったことがありませんでした。25キロを超え未知の世界に入りました。28キロから足の痛みがひどくなり歩いてしまいました。しかしなんとかゴールをすることができました。まさかゴールをすることができるとは思ってもいなかったので、感動しました。
フルマラソンをゴールすることができたことによって、今まで諦めがちだった私の性格が変わった気がしました。
26歳 女性のストーリー
私は男運が本当に最悪でした。
Aは妻子持ちで、それでもいいとお互い付き合っていたのですが、それを知ったBは浮気が許せないために私をうまいこと略奪。ただ、そんなBには既に彼女がいましたが、それでも私はBと付き合いました。
あとから聞いたら、私とAを引き剥がすためにBを好きにさせようと、その彼女が提案したらしいのです。それを知っても、愛に飢えている私は別れることが出来ませんでした。
ただBは本命彼女メインに連絡を取るため、私は寂しさからいろんな人を好きになりました。
その中のCはほんとに素敵な人だでした。Bから私を略奪…いや、助け出してくれたのです。
Cは今までの男と違って、本当に私だけを愛してくれる人でした。今まで10人弱と付き合ってきましたが、こんなにも愛してくれる人は初めてでした。
私を奪い取るの、ほんとに頑張ったんだよ!とよく話してくれます。
そんなCとは、今月入籍します。
こんなに素敵な人に出会えてよかったです。
25歳 男性のストーリー
死後の世界を経験した人がガラッと変わる、という話を聞いたことがある人は少なくないと思います。

私は以前自殺未遂を繰り返し、入院を要する事態にまで発展しました。


そこから療養やリハビリを経て、今では社会復帰を果たしました。


その中でも入院するに至った未遂では、人生観が変わりました。

それまでの私はとりあえずやりたい仕事、とりあえずやりたいことをしていました。

ですが未遂をし、そのショックで前後の記憶が無いのですが気がついたときは、もう一度生を受けた気分でした。


それによって私は以前の自分のあえて生涯と言いますが、生涯何の意味もなかったのではないかと思いました。

私はこの世に生を受け、一度それを捨て失いかけ、もう一度生を受けました。

この経験を通して今回は私自身の生、命に意味が欲しいと思いました。


未遂を通して私は、一つの大きな目標を持ち、命をかけて取り組むことができるようになりました。

※この文章は自殺未遂を推奨するものでありません
49歳 女性のストーリー
もともと身体が丈夫で、病院とはほとんど無縁だった私ですが、数年前に、初めて入院、そして手術を経験しました。当時妊婦だった私は、悪阻も全くなく、なんとか普通にマタニティライフを送っていました。だんだんお腹も大きくなりつつあった頃、早産の可能性が出てきて、急に入院することとなりました。自宅にいては、ついつい、家事や炊事で身体を動かしてしまいがちなため、入院して、安静に過ごすことが必要だったのです。初めての入院生活で、戸惑いもありましたが、大部屋のベットに入り、同じように安静が必要な他の妊婦さん達と励まし合いながら、入院生活を送りました。当然のように無事に子供は生まれてくるもの・・と思っていたのですが、ある日のこと、突然、お腹の中で出血してしまい、私は命が危ない状態になりました。緊急手術をして、集中治療室にも入り、なんとか一命をとりとめましたが、残念なことに、生まれてくるはずだった子供の方は助からずに、お腹の中で亡くなってしまいました。妊婦の身体の中には、妊婦本人の命と子供の命、二つの命があります。同じ身体の中に共存してたのに、一つの命は助かり、一つの命は亡くなる・・という体験をし、それはとても衝撃的な記憶の体験となりました。そして、その経験をしてから、生と死について深く考えるようになりました。どうして自分は命が助かり、どうして子供の命が亡くなりこの世に生まれて来ることが出来なかったのか、誰にでも起こる可能性のある出来事ですが、どうして私がその体験することになったのかも、理由がなく分かりませんでした。
私たちは、普段、生の力に満ちて生きている時、死をとても遠くにあるものとして、まるで自分とは無関係であるかのように感じていると思います。でも実は、生と死はとても近くにあるもので、自分がいつ何時、死に近づくかは誰も想像できません。妊娠出産だけでなく、災害や交通事故、突然の病気宣告や、急な外傷で命が危なくなることもあります。そして、今生きていること自体も、当たり前のことではなく、たまたま運の良さが継続していて命がある状態が続いているだけだと思います。人は誰でもいつか必ず命に終わりがきます。自分の命が助かったことと、死産という出来事は、生と死について深く考えるきっかけとなり、私の人生や生き方を大きく変えた出来事となりました。
49歳 女性のストーリー
大学を卒業後、一般企業に就職をし、長く会社勤めをしてきました。一般事務の仕事で、とても安定した企業でしたが、社風や同僚の雰囲気が自分とは合っていない職場でした。それでも、せっかく縁があり内定をもらった会社なので、すぐに辞めることはしませんでした。とてもストレスのたまる職場でしたが、なんとか毎週末にストレス発散を心掛け、会社は収入を得る場所と割り切って、働き続けました。ですが、長年の忍耐を伴う仕事生活で、心身の疲れも無意識にたまっていたようで、限界も感じていました。そして、会社を辞める決心を固め、転職するために、14年ほど勤めた会社を退職しました。その後、別の新たな企業に転職し、数年働いた後、縁があり結婚退職し、今に至ります。
最初の企業は、安定した良い会社だったけれど、自分とは合わない職場で、人間関係にもかなり悩まされました。でも、そこでは忍耐力を学べたと思います。そこで働いた14年間を色で例えると、グレーです。身体は生きてるけど、精神的には死んでいたような生活だったように感じます。限られた自分の人生の時間を、グレー色の生活から、色彩豊かな色のある生活に変えたい、そう思って実行した退職・転職でした。
人生を変えようと思った時、時にはリスクもつきまといますが、勇気をもって行動に移したその出来事は、私の人生を色のある人生に大きく変えました。また、環境を変えると、出会う人も変わり、人生の流れが大きく変化していくと思います。自分にとって良い方向へ向かう決断を、これからも慎重に選びながら、過ごしていきたいです。
19歳 女性のストーリー
18歳の時に初めて海外一人旅をしたときに、私の人生は変わったと実感しました。
行先はベトナムのホーチミンです。私は世界の食べ物に興味があり、海外に行きたいと思っていました。
 しかし、私は人より好き嫌いが多かったのです。とりあえず日本のものはすべて食べれるように「好き嫌いなくそうキャンペーン」を一人で細々と実施していました。実施してから1年後には、目の前に出されたものすべて食べられるようになったのです。
その後、私は海外に飛び出し、驚いたことがありました。なんと。私は現地の食べ物だけでなく、カエルや動物の脳みそなどゲテモノまで食べれるようになっていたのです。
 「好き嫌いなくそうキャンペーン」のおかげで、目の前のものはとりあえず口に入れてみよう。そこから好きか嫌いか判断したらいい。という感覚を身に着けることができたのです。
30歳 男性のストーリー
中学卒業後私は県外の専門学校に寮に入って入学しました。
そこそこな学力の学校で卒業後は電気関係のサラリーマンかプログラマか辺りになるだろうな。と思っていました。
寮生1年目で先輩から麻雀でカモにされました。最初の一回だけやんちゃな子はかもられるそうです。古い伝統でした。こちらは麻雀をしたこともない平成生まれだったので。
しかしそこから麻雀に興味を持ち、学校にも行かず学校の隣の寮で連日麻雀漬けの毎日です。朝までして学校の時間はメンツが学校に行くので私は日中ずっと寝ていました。
そのかいもあって、寮では負けなし、休日は街のほうで雀荘に通いました。雀荘の負け分を寮で回収する感じでした。現在私は麻雀と少しの仕事で食べています。
一番の体験と人生まで変えた高校1年生でした。
24歳 女性のストーリー
私が中学生の頃の話です。
友人の勧めでソフトテニス部に入ることになりました。過半数が初心者でしたが、1、2名経験者がありフォームもやはり私達とは別格の存在でした。外でのスポーツということもあり、直射日光に浴びながら必死にボールを追いかける日々でした。

ある日、今思えばそんなことで?というような内容で、私がいじめにあいます。
同じ部活の同級生全員からの無視は答えました。ですが、負けたくない一心で毎日通い、嫌われている相手、悪口を言っている相手にも挨拶を欠かしませんでした。その中で絶対にこいつらより上手くなってやると心に決めて、番手選考会が始まりました。
正直、勝てる自信はありませんでしたが、自主練をやっていたお陰でしょうか、先輩を抜いてベンチ入りを果たしました。
その後、いじめていた奴らも急変し仲良くなり、中学三年生の時には番手2番目まで上り詰めました。
その頃には、誰も私に指図することもなく、悪口を言われるわけでもなく、むしろ私の組みたいと、散々いじめた女が泣きついた時に、本当にざまぁみろと思いました。
28歳 女性のストーリー
人生が変わった出来事は、娘が生まれたことです。
今まで大切に思う人・ものはありましたが、自身を投げ打ってでも大切にしたいと思うものはありませんでした。それが今回娘を妊娠・出産することにより、ガラッと考え方が変わりました。
妊娠中は些細な衝撃や自身の食生活に神経質なほど気を使い、検診幾たびに「生きているだろうか」「ちゃんと成長しているだろうか」などハラハラしていました。出産後は、いつもと違うちょっとした変化や食べ物、住環境にピリピリと気を張っていて、常に自分は二の次、それこそ娘中心の生活となりました。少しの事で死んでしまう小さい命を前にして、自分の行動一つ一つの責任がいかに重いのかを思い知らされました。
それでも、そのような中で娘が毎日少しずつ少しずつ成長し、出来ることが増え、笑いかけてくれるだけで、辛いと思えることも一瞬で消し去ってくれます。日を重ねるごとに「愛おしい」という気持ちが溢れ、この子の為なら頑張れる、なんでもしてあげたいという気持ちにすらなれるほど娘は一番大切な存在となりました。
このような気持ちになる日が来るとは思ってもいませんでした。
そして両親に対しての気持ちも変わる出来事でもありました。私自身も親となり、子育ての辛さ知り、お母さんもこのように苦労して私を育ててくれたんだと思うと感謝しかありません。
このように私は娘が生まれたことにより、人生が大きくかわりました。
これが私の人生が変わった出来事です。
52歳 女性のストーリー
昨年の話しです。私はとある会社に、パートとして働いていました。15年間、どの社員さんにも負けないくらい残業もバンバンやり、サービス残業もかなりこなし、持ち帰り仕事も頻繁でした。後から入社した人は、私がパートとは思ってない人ばかりでした。
長く勤務していたので、わからない社員さんに一から教え、部署の責任者が変わっても業務が滞る事はありませんでした。
定年まで10年、忙しくはありますが好きな仕事だってので、このまま続ける気持ちでしたが、事件は起きました。
5年勤務したら「無期雇用に転換」される制度ができ、制度ができてから5年目でした。そんな事を知らない私が5年目を迎えるタイミングで、契約更新せず期間満了で退職させられました。
仕事ばかりしていた自分が、理不尽な理由で無職となり今だにやる気が起きず、仕事もせず呆けています。
人生何が起きるかわかりません…
27歳 男性のストーリー
小学3年生から大学3回生まで野球に真剣に取り組んできました。
小さいときから周りより上手で目立つ存在だったこともあり、普段は物静かですがグランドにいるときは自信に溢れ堂々とプレーするような選手でした。
それから大学に入学し最初の夏が訪れ、少しずつ他の選手とも打ち解けうまくやっていけそうだと感じていた矢先に起きた出来事です。
部室で選手だけでミーティングをしていた際、私のことを良く思っていなかった選手が私にボールを投げつけバットで殴ってきたのです。その時他の選手は、止めるでもなく心配するでもなく一緒になって笑っていました。ついさっきまで普通に接して話して練習していたメンバー達が私の中で全員敵になり、誰も信じることができなくなりました。
いくら上辺で仲良くしていても、根本は何を考えているかはわかりません。人懐っこく誰にでもオープンでしたが、この日を境に他人を信用し接することはなくなりました。
22歳 女性のストーリー
生きてきて21年ですが私の人生が変わった出来事は親の元から離れたことです。
高校卒業後と養成所に通ったがそこでのレッスンの厳しさに入所3ヶ月でやめてしまいました。
特にやりたいこともなく親元でダラダラとしながらフリーターとして働いていました。
その時は本当に無気力で家と職場の行き来くらいでしか外に出ていなかったです。
半年ほど働いたのですが全くお金を使わなかったので50万くらい溜まりそこで田舎だし車を買おうか悩んでいたのですが突如一人暮らしをしようと思い立ち気づいたら東京で家を契約していました。
親からの忠告など何一つ聞かず仕事も決まっていない状態で一人暮らしを始めたのですが甘くはなかったです。
でもだんだんと仕事も友達も出来て彼氏まででき今ではその彼氏と一緒に住んでいます、大阪で。
19歳 男性のストーリー
自分は現役で受験に大失敗して、本当は行きたくもない大学に行くことになった。学んでいることもこれは自分のためになっているのかもわからなかった。だから、自分は、大学に行きながら、他の大学に行くための勉強をした。しかし、上手く時間を取ることができず、その年も受験に失敗してしまった。とても落ち込んだ。1ヶ月以上は外出をすることなく、友達からの遊びの誘いも断り、自分の部屋から出ることがなかった。しかし、2ヶ月後、自分はバイトを始めた。良い人ばかりだった。そのためか次第に内向的だった自分は、周りに明るく振る舞うようにできるようになってきた。バイトを始めたきっかけで、受験での失敗を忘れることができこれからの人生前向きに行きていこうと思った。
56歳 男性のストーリー
話はもう20年前程にさかのぼりますが、当時の私はとても乱れた生活を送っていました。
どんどん買い物をし、お金を使い、無くなったら借りる等、そういう生活を数年続けていましたが、ある時に一人の女性とお付き合いする事になりました。その女性はとても軟らかく、怒ることも無く、私のわがままを聞き、時にはなだめてくれたりと順調にお付き合いしていました。
そのうちに私はふと彼女が胸にいつも付けているバッジの事が気になっていたので、思い切って尋ねてみました。
そうすると彼女は、「正しい生き方を学ばせて頂いている団体のバッジです。」と答え、私に「一度一緒に足を運んでみますか」と言ってきたので私は、「なんだ宗教か」と思いながらも、彼女のそれまでの振る舞いを見てきて興味があったので、行ってみる事にしてみました。
そこは宗教法人こそ登録されているものの、イメージを遥かに超えた内容を学べる所でした。私はその後、入信し今に至っていますが、今の私は当時と比べ随分と変わりました。 物欲が無くなり、嫌なことでも受け入れる等、話し出すときりが無いのですが随分と人生観が変わりました。
当時、その団体を知ることができなかったら、今の私はどんな人生を送っていたのかと考えるだけでも怖くなります。
本当に彼女と出会い、その団体を教えて貰ったことに感謝しています。
54歳 男性のストーリー
大学を卒業して大手企業に就職し、その後多くの転勤や出向をしてきましたが、昨年秋に初めて転職をしました。定年まで働き続けると信じて疑わなかったのですが、ある転勤がきっかけで、53歳にして会社を辞める決意をしました。
辞めると決める発令が出るまでの5年間、自分なりに今の仕事の関連業務で定年まで働きたいと思い、会社にもその希望を伝え社長にも同意をもらっていたつもりでした。しかし定期人事異動で言われた内示は、その希望とは全く異なるもの。異動した後に自分がどういった道に歩いていくのか、どういうステップアップが望めるのか、給与はどうなのか、などを考えたら、ここがこの会社との縁の切れ目だと確信し、内示のその日に転職活動を開始しました。
その活動が成功し、今は5年間働いていた分野の競合会社に、以前よりも良い条件で働いています。家族にも喜ばれ、良い転職活動でした。
34歳 男性のストーリー
17歳の時コンビニのバイトを始めた。
最初は早朝のみのバイトだったがだんだんと人が辞めていき、昼間、夜、深夜も出るようになった。
オーナーに頼られるんがうれしかったんだと思うがこれが失敗だった。店長になったがあまりの激務に29の時に体を壊して辞めた。
辞める時も引き延ばされ半年くらい辞めさせてもらえなかった。
コンビニのバイトをしてなければきちんと学校へ行って、普通の企業に就職できていたのではないかと今でも思うことがある。
今現在はフリーランスとしていろいろな仕事を受けているが、仕事がないときもあるし、収入的に安定しているとはいいがたい環境にある。
自分で決めたことではあるが、アルバイトがここまで大きく人生を変えるとは正直考えていなかった。
54歳 男性のストーリー
人生が変わったことは父親が軽度の認知症になったことで母親のサポートなど
家の用事を率先してするようになることで仕事が一年くらいで辞めていたことを考えると
3年も続いている事は人生の転機なんではないかと思います。人生が変わったことで
彼女もできる自信が出来て生活感も変わって一人暮らしもする事に対して
前向きな姿勢になってきているので絵今は契約社員目指しています。今年の10月には家族4人姉含めていく予定にはなっているので体も心もベストな状態にして今年は良かったなあ
と思える一年にしたいと思っています。もう一つは大殺界から抜け出して今は種子の状態なんで今年から後5年は良いことが起きると信じて人生変わったんだと実感しています。
もう一つは斜視の手術をすることになっているので遺伝ですが完璧に直したいと思っています。病院も決めています。気を緩める事をしない様に適度に休憩しながら
前進あるのみです。
57歳 男性のストーリー
 「手に職をつけろ」という親にいわれ、建築科の高校を卒業し、建築関係の仕事をしていた。何処も長続きせずに、数か月から数年で転職を繰り返していた。
 三十歳を過ぎて、まだ、落ち着かなかった私に、業種を変えてみればと、寿司屋の見習いの仕事を母が持ってきた。食うことに困らないかもと、入った寿司屋は二十歳代の職人がいる店だった。私の料理の実力は家庭科の実習ぐらいで、二十歳代の職人には、なぜ今頃職人を目指すのか?それだけの根性があるのか?と、私のことを見ていたようだ。
 当時の私には、そんな自覚などなく、言われたから転職してきただけで、なんとか金が稼げればいいやとい程度の認識だった。当然、職人からの風当たりは強くなる。が、根性もなく、先輩職人とはいえ、年下にしごかれまくって、私の心はしっかり折れ、くだけ散った。
 忙しい時間帯にヘマばかりする新入りに「仕事をせんでいいから、端に立ってろ!」の言葉に、自分自身が情けなくなり、生きているのが嫌になり、店の三階まで駆け上がりそこの窓から飛び降りた。
 結局、両足骨折、腰の圧迫骨折で半年以上入院することになった。
 その入院中に言われたことは、「頭から落ちていれば死んでいた。運が良かった」だった。
 入院中動けない体で、「なぜ、助かったんだ」と考え続けた。そして行き着いた答えが「神様っているのかもしれない」「自分にもなにか出来ることがまだあると、神様が助けてくれたのかもしれない」だった。
 退院後は松葉杖の生活で、身体障碍者認定を受けた。最悪、車いすの生活になるかと思ったが、その後のリハビリのお陰で、なんとか、杖なしで自力移動ができるようにまで回復した。未だに「なぜ助かった」は解らないが、リハビリの頑張れたのも、宗教関係でいま頑張っていられるのも、あの入院中の反省会があったればこそかもしれない。
31歳 女性のストーリー
ある夏の日、私は難聴になってしまいました。前日も何の予兆もなく、普通に過ごしていたのが、朝起きた時に右耳に異変を感じたのです。詰まったような感覚と、ザーッという雑音。聞き取りにくいし、何より気持ちが悪くてその日から不快感がずっと続いたのです。そのうち治るのかなと数日は放っておいたのですが、良くなる兆しもなく不安もあり、耳鼻科へ受診することにしました。診断結果は、突発性難聴でした。聞いたこともない病名で原因も不明で、頭の中が真っ白になりました。薬を処方されたものの、いつ治るとも知れないもので、とにかくストレスのない生活と薬を継続することしかありませんでした。少し良くなったかなと思えばまた調子が悪くなるという状態が続きました。その間、先の見えない不安に怖くてふさぎこむようになってしまいました。けれど、「このまま耳が聞こえなくなるなら、いっそ今聞こえているうちにやりたいことをやっておこう」そんな思いが浮かび、気がついたら行動に移していました。私が決断したことは、ラジオのパーソナリティーになることでした。そしてコミュニティーラジオ局のボランティアスタッフとしてでしたが、ラジオの番組を持たせて頂ける機会を得ました。難聴を抱えながら、約2年近くパーソナリティーを経験しました。ラジオをやっている間は本当に病気を忘れ、一生懸命になることで前向きに過ごすことができました。ラジオのパーソナリティーは憧れていましたが、実際踏み出す勇気は持てずにいました。逆に病気になったことで、ここまで頑張ることができたのだと思います。そして、辞める頃には難聴もほぼ完治し、今も再発はしていません。難聴はとても怖かったのですが、生きる希望や夢を与えてくれたのも難聴がきっかけでした。この出来事は今までの人生で本当に貴重で大きく変わった出来事でした。
31歳 女性のストーリー
大学時代、ちょっと変わったテニスサークルに没頭したことがあります。

元々テニスが好きな私は、もちろんテニスが上手くなりたいという一心で入部したのですが、思いとは裏腹に、応援、ボーラー(ボール拾い)を全力で行い、時には過呼吸で倒れる人が出ることがあるほど、応援、ボーラーに力を入れる厳しいサークルだったのです。4時間のうちに何度か休憩はありますが、ほぼぶっ通しで笑顔で全力ダッシュです。この状態で、順番が来たらコートに入りテニスをします。

先輩がボールを拾おうとすると、全力で取りに行きます。練習後にはミーティングがあり、練習中の応援が盛り上がっていたか、ボーラーは全力で行えたか反省を行い、ほぼ怒られておしまいです。

何度も辞めようと試みましたが受け入れてもらえず、授業のシフトをサークルに提出するため、ズル休みはできません。

飲み会も少し変わっていて、コップにビールが入っていなければ、瓶を取り合うようにして一目差に注ぎます。コップの向き、瓶を注ぐラベルの向き、注ぐ順番なども間違えてはいけません。

そんなサークルでしたが、不思議なことに、練習中はこれほど厳しいのに、それ以外ではとっても優しく個々は仲の良い思いやりがある人たちばかりなのです。
今思えばまるで、DVの手法と同じようにも感じてしまいますが、私はそのサークルに染まっていました。

このような過酷な時間を共にした仲間ということもあり、気づいた時には不思議と一体感が生まれていました。

卒業して社会に出て働いた時、あっと思いました。社会でのルール、厳しさ。
時代にあっていない風習ではあったけれど、経験しておいて良かったと。
こんな意味のわからない風習に苦しみ、時間を共にした仲間ももう二度と出会えないかもしれない。

今は私の一生の思い出となり、仲間とは思い出話に花が咲き、
そこで出会った仲間の一人と結婚して幸せに暮らしています。



35歳 女性のストーリー
私の人生が変わった出来事を挙げるとすれば、競馬を知って趣味になったことです。
競馬などのギャンブルは一切興味もなく、むしろ嫌いでしたが、夫から競馬の話を聞いていろいろ調べるうちに、単なるギャンブルではないことが分かりました。
競走馬として生まれるまで、レースに出れるまで、引退後など、すべてのことに多くの人が携わっていて、背景にはものすごいドラマがあることを知りました。実際に競馬場に行くと、馬の体の迫力と美しさに目を奪われました。
競馬は確かにギャンブルで、生き物を賭け事にすることに疑問を持つ人もいますが、馬のことを一番に考えていて、馬と人の信頼関係というのがよく伝わってきます。
そして、一生懸命走りぬく姿、レース後の堂々とした姿は、人に感動と勇気を与えてくれて、競馬の歴史や背景を知ると、一日一日を大事にしなきゃなって感じさせてくれるほどなのです。
49歳 女性のストーリー
私の人生が変わった出来事は、昨年1月14日に車にはねられ、意識不明の重体に陥り、生死を彷徨った事です。
飲食店で朝6時まで働いてフラフラでした。仕事終わりに何も口にしていなかったので、ファミリーレストランで食事をした後、自宅へ帰る途中の出来事でした。信号のある交差点から10メートルの道路を横断しようとした時です。私自身は、自転車に乗っていました。そして渡ろうとした瞬間、「あーー死ぬーー」。気づいた時には、恐らく1メートルの近くで、横から走ってくる車のマークが、視野にはいり「ドカーン」と物凄い衝撃音で、私は相手のフロントガラスに頭をぶつけ、そのまま20メートル引きづられました。道路に転がって、すぐ周りの人が救急車を呼んでくださり、私はそのまま意識不明になりました。気づいた時は、線に繋がれ、酸素マスクをし、自分でも死ぬと思いました。それから数日入院をしましたが、私の命は奇跡的に助かりました。まだ完全には治っていませんが、命拾いをしました。事故後は、考える事も多いですが、くいのない生き方、そして人に優しくを心掛けています。
25歳 女性のストーリー
21歳で子供を産んで母親になった事。
若い頃はいろいろやんちゃをしたり、
自分で自分を傷付けたり、
家に帰らなかったり
親に迷惑をかけたし、心配もさせた。
シングルマザーで4人の子供を育ててる母親に沢山手を掛けさせてしまった。
そして、今自分が母親とゆう同じ立場になり
つくずく自分はバカ女だったなと思います。
そして、子供を産むとゆう体験もしました。
母親とゆう物はこんだけ大変な思いをして
1つの命を新たに築くんだなと思いました。
10ヶ月間いろんな事に気を使って、不安になって
何時間も陣痛に耐えて、痛みに耐えて子供を産む。
子供を産み、育てていくと言う体験をしてると
命の大切さや、親のありがたみ、子育ての大変さを知る事が出来ました。
人生が大きく変わった出来事です。
44歳 女性のストーリー
社会人になって同じ会社で違う店舗に転勤になって、人間関係がとても悪い店舗に異動になったときに立場的には中間の立場で移動したのですが、上司が態度が悪く次から次へと入社してくる人が辞めてしまうような店舗だったので、上からの威圧感がすごく私も異動してからは、いろいろと言われそれまでは私も若かったのもありますが怖いものなしみたいな態度だったのですが、だいぶおとなしくなり異動する前に一緒に仕事をしていた人たちからは穏やかな感じになったので、びっくりしたと陰で言われていたらしく自分もそれはわかっていて、態度が悪い上司のおかげで自分は二度と天狗ではないのですが、威張るような態度はとってはいけないと今でも思いながら生活しております。
55歳 男性のストーリー
ぼくもそうでしたが、坊ちゃん育ちの男子が、最も恐れるもの。
それは、顔を拳で殴られる、というもの。
なぜなら、そうされた経験がないから。
つまり、それに関する知識が、映画やドラマでしかないから、それが、ものすごく派手で痛いもの、という観念、もしくは妄想を持っていて、それを勝手に大きく膨らませているから。
結局人間は、知らないことが一番怖いでしょ?
ぼくは幸か不幸か、二十歳前後の頃に、街で不良にからまれ、めでたく?顔をパンチ!された。
そのときはパニくったが、同時に、何だこんなものか、という、知った安心感。
頭がキーンとなる懐かしい感覚。
それはすでに、子供のときに経験済みの感覚だ。
こんなすでに知っていることを、勝手に妄想して恐れていたのか、という、自分に対する情けなさ...
しかし、うまく言えませんが、この日を境に、世の中の見方が、かなり変わったのは事実。
27歳 女性のストーリー
今まで自分は頼りなくて世間知らずの甘ちゃんでした。ドジで何をしてもうまくできず、親からもいいところは優しいところだけだと言われてきました。
仕事も色々してみましたが、やはりうまくいかず、また人にも優しいけど自分にも甘いので、怠けていました。
やらないといけないことも後回しにしてしまう性格だったんですが、
自分が妊娠して子供が産まれて結婚してからはだいぶ変わりました。

子供の為ならいろいろ頑張れましたし、本当にしっかりしたと思います。また手本を見せないといけない立場なので行動などもだいぶ注意したり、ちゃんとしたことができるようになりました。

あんなだめ人間だった自分がちゃんとできたり、頑張れたりできるようになったのは本当に子供のおかげです。
41歳 女性のストーリー
私は、22歳まで厳しい家庭環境の中で過ごしていました。家で呼吸が出来ないくらい息苦しい生活を強いられていました。何度も死ぬことを考えて行動に出るところまでありました。
実際は死ぬことは出来ませんでした。死ねないことを毎日悔やんでいました。
そんな時に、私とまったく逆の世界で生きてきた男性と出会い引かれてお付き合いを始めました。
毎日が楽しくて死ぬことを考えたり、呼吸をすることもおいしく感じました。彼に救われました。
私の人生を変えてくれて結婚まですることが出来ました。今はあの時死ななくて本当によかったと思えるようになっています。彼も生きてくれていて本島によかった。死んでいたら出会うことも出来なかった。と言ってくれます。
40歳 女性のストーリー
アパレル店のオープニング準備スタッフという求人が目に留まりました。私はその頃、自分の進路に行き詰まり何をしたらいいのかと模索中でした。
洋服が好きでアパレル関係の仕事に興味がないわけではありませんでしたが、アパレル店の店員さんは見た目も重要視されるようなイメージがあったので、自信のない私には挑戦することすら考えられなかったのですが、オープニング準備と言うことでお客様に対応するのとは違い、ハードルが低くアパレル業に携われハードルが低くアパレル業に携われたるということから
試しに受けてみました。
結果は見事合格し、仕事が始まりました。
すると店員としてお客様の対応をすることになってしまいました。
ですが、アパレル業の楽しさを感じそれからずっと携わっていて、自分の人生の大きなきっかけになりました。
37歳 女性のストーリー
私の人生が変わった出来事は、失恋です。普通のことだと思われるでしょうが、、、私にとって、それは、ただの失恋ではありませんでした。高校のときから、付き合う人は告白された人。付き合っても、感情が移入するほどでもなく、自分はとても淡白な人間なんだと思い込んでいました。数人の方とお付き合いしまいたが、いたって普通のお付き合いでした。が!29歳の時、「人生でこんなにも人を好きになったことない」という人に出会いました。当時、その彼には彼女がいましたが、自分を抑えきれず、あたって砕けろ精神で告白。見事お付き合いできるようになりました。略奪愛成功ですね(笑)まさか、自分がこんなことする人間だったことに驚きました。そして、付き合っていくうちに、日を重ねるごとに好きな気持ちが溢れ出す、、、いままでにない新鮮な感情。そんな幸せな毎日を5年間送っていました。が、、、問題は、一向に結婚を切り出さない彼。彼の実家でご両親にもお会いしました。彼の上司にも紹介してもらいました。彼の親友や周りの方々にも、、、なのに、、、。不安でしたが、こんなにも好きでいる、こんなにも長い時間一緒にいる。という気持ちだけで乗り切っていました。が、、、別れは突然でした。彼の「好きだけど結婚は考えられない。家族のような存在としか思えない」と、、、別れを告げられました。過呼吸になるくらい泣き、苦しみ、すがりつきましたが、、、彼の気持ちは変わらず。泣く泣く別れを選ぶしかありませんでした。もう、諦めでしたね。別れて次の日に、同棲していた家を飛び出し、実家へ帰りました。
失恋し、ここから人生が変わりました!!絶対に幸せになってやる!!!と。
その1年後、元彼より素敵な男性と結婚でき、お腹の中には、新しい命が。本当に幸せです。
後々わかったことでしたが、彼には新しい女ができていました。別れて2ヶ月で結婚したそうです。元々、私とのお付き合いを知っていた方々からの非難轟々。本人たちはお花畑状態でしょうが、周囲からはあまり祝福されてないようで、、、ま、今の私には関係のないことですが♪
と、長くなりましたが、「失恋」が人生が変わった出来事でした。
32歳 女性のストーリー
25歳の時に高度異形成3bが分かって手術が必要と言われました。
手術して1年は検査でもクリアでしたが、1年3ヶ月後にまた再発してしまって、再手術が必要と言われました。
その時に子供が産める確率が下がるのと流産早産のリスクがかなり上がると言われました。
子供が欲しかったので絶望感が押し寄せてしまい自殺未遂をしました。
彼が帰ってくるのが後1時間遅ければ私は今生きてないです。
運ばれてから、7日目で意識が戻って彼から子供が産めなくても俺はいいからと言われて、この人と共にこれからも生きようと思いました。
退院してからお互いの両親に話をして手術が終わってから結婚することになりました。
その1年後に妊娠して早産になりましたが大切な息子を出産出来ました。
42歳 男性のストーリー
人生が変わった出来事、それは大学を卒業して風俗業界に就職したことです。
大学は某電機大学で工学部を卒業、順当に行けば大学で学んだことを活かせる会社に就職し、順風満帆とまでは言わなくとも、平穏な人生を歩んでいたと思いますが、大学時代に交際した女性が風俗店で働き始めたことを知り、なぜか私自身も大学卒業と同時に風俗業界に進んでしまいました。
以後、警察のガサ入れがあるたびに店を変え、時には雇われ店長を経験し、SMクラブで働いたこともありますが、現在は文章を書く仕事に落ち着くことができました。風俗業界で知り合った人たちは、私が今まで付き合ってきた人たちとはまったく違う方でとても多くのことを学びました。順風満帆な人生ではありませんでしたが、私は今のこの人生をまったく後悔していません。
47歳 女性のストーリー
2001年のアメリカ同時多発テロ。
テレビで最初、ビルに飛行機がぶつかるのを見て、現実の出来事とは思えず、まるで映画を見ているかのような錯覚を起こしました。
しかも、またもう一機がビルにぶつかるのを見て、コレはただ事ではない事を悟り、この先、どうなってゆくのか?と恐怖でした。
それまで、海外旅行に行く機会が多かったのですが、これを機に、海外とは縁遠くなりましたが、日本国内旅行にシフトを変え、日本にも、たくさん素晴らしい場所があるんだと巡るようになりましたし、人生、明日は何が起こるか分からないなら、好きな事をして生きたい!と強く思うようになり、やりたい事や行きたい所へ積極的に出掛けるようになりました。おかげで、楽しく人生が過ごせています。
26歳 女性のストーリー
18歳で妊娠が発覚。
通っていた高校を中退し、結婚出産。
育児に参加もしない旦那はすぐ外に彼女を作り、理由を見つけて私を実家へ丸投げ。
それからは離婚に向けて水面下で動く日々。
18歳ながら悪知恵は豊富で、どうやって落としいてれやろう、そんな事ばかりを考えていた。
離婚すると決まって旦那も安心したのか、まだ事実嫁である私に彼女の相談。
妻子がいるからまだ色々付き合いを待ってもらってるなど家に連れてきてもいいかなどなど。
二人でドライブか外食かに出掛けている車の横についた事もあった、信号がたまたま赤になり横を見ると向こうも気づいたように急発進。
律儀にその当時流行っていたタイムラインに逐一行動を書いていて、写真は何故か嫁にツーショットを送り付けて来た。
全て印刷して、向こうの親の前に叩きつけてやった。旦那は顔を引き攣らせ失笑。ざまぁみろ。

「私の変えたい過去」

21歳 女性のストーリー
精神的障害を持ち、自分らしさを生まれつき制限される機会が多かった(今もですが)のですが、自分ももちろん家族も気がつくことはありませんでした。
ただ症状に耐え、我慢を続ける日々が限界に達した時、私がストレスによる身体症状が現れました。高校生の時でした。
自分でも、もちろん親も私の障害を受け入れられなかったため、親からは冷たい言葉を吐かれました。精神障害をコントロールしたり我慢したり、普通の人のように振る舞うことなどできないほど疲れてしまった私を、家族から腫れ物を触るように接せられました。

私に「普通」を求められる家族に理解してもらうことを私は半ば諦め、容認しました。
「普通」のフリを必死にして、ダメな時は家族に自分を否定され、また普段の症状からも精神的負担を強いられました。希死念慮も症状として現れることも良くあったため、本当に、楽しいことをしても楽しくない。毎日辛さ、悲しさ、絶望感しか感じない。死んでしまおうか。と何度も何度も、何度も何度も思いました。

今は、一人暮らしをして、大学で研究しています。障害を自分で受け止めつつ、毎日を過ごしています。私の障害を理解できなくとも、辛さをわかって助けてくれる友達がたくさんできました。治療に励み、毎日薬を飲んでいます。家族も私の訴えを聞いてくれました。落ち着いて、丁寧に説明したことで、治療や障害を理解してくれています。将来のことも、障害を踏まえて一緒に考えてくれます。

私が変えたい過去は、私の価値観、考え方です。障害がなければ、家族に冷たくされなくてすみましたし、症状による過度のストレスを負わなくて済んだと思います。障害さえなければと思うこともありますし、何で他の人とおんなじようにできないんだ、何で自分は感情が不安定になるんだ、などと考えることは多々あります。しかし、その全ても私は自分の一部として受け入れられたので、今は高校生の頃の辛い思い出は新しい自分になれた良いきっかけでもあります。

変えたい過去の考え方は、自分を受け入れなかったこと、ストイックになりすぎて「こうでないといけない」と追い詰めてしまったことです。
確かに、真面目で努力家でストイックな私は成績優秀で、県内でも上位の高校に入学しました。今考えると障害を持ちながら努力し続けた自分を誉めちぎりたいレベルです。笑
ですが、「ちゃんとしないと認めてもらえない」「自分など価値はないのだから、出来ることで認められよう」「また失敗した、自分なんか何にも役に立ちやしないダメなやつなんだ」とよく思っていたのです。この考え方は本当に危険です。いくら良い結果や成果をあげても、精神的に自己破壊しているのと同じです。(現に私は崩壊しました)
こういう考え方をする方は、真面目で、些細なミスも許されないまたは許せない方なんですよね。自己評価を低く、低くして、決して傲慢さも持たず、慎ましく生きようとしているのだと思います。
私は、もし、この内容を見られてる方の自己評価が低い方には、とびきり応援をして、褒めて褒めて、貴方の存在の大きさ、素敵さをいっぱい語りたいです。私からしたら、普通の人が普通に生活してるだけで凄い事なんです。羨ましいし、かっこいいです。やる事やらないのにダラダラしたってかっこいいですよ。笑

自己評価の低い考え方を時間をかけてゆっくり変えてきた私は、「自己評価高くしておけばよかった、今までの人生めちゃくちゃ損をしたな」って思ってます。障害に苦しめられても、障害でやるべき事が(やりたくても)できない自分を責めず許して、認めてあげる(認める事もプライドが傷つく事もあります)事で、私は生きていて幸せなのだと思えます。希死念慮も今もありますが、「いや、普段の私はこんなこと思わない!」となんとか理性で耐えてます。笑
今まで生きてきて思うのは、障害同様、自己評価の低い考え方の方が自分にとって大きな闇でした。障害が無くても、自己評価の低い考え方のまま生きていたら、きっといつか後悔してしまう時が来るのだと思います。

自分を責めても、自分を苦しめるだけです。得られるのは贖罪をしたように感じるだけ。
それに何の意味があるんですか?何の生産性がありますか?
自分を本当に幸せに出来るのは、他人ではなく自分です。自分を認めて許してあげるのは他人の役割ではなく自分の役割です。
私は今、こう考えて、日々幸せになることに努力しています。
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