"感動" に関するエピソード

「今までで一番感動した話」

60歳 男性のストーリー
夕暮れ、私はあの京都の街のタクシーの中でハンドルを握っていました。その頃、私は、なりたてのタクシードライバーで、未だ慣れぬタクシーの仕事に付かれる毎日を送っていました。
私がその職を得た当初、タクシー自由化というものが私が仕事を初めた頃行われ、ました。結果、月日が経つにつれ、街は、タクシーで溢れかえるようになって行きました。

その日も私は客足を見る事も容易にままならぬまま、むやみに車を走らせる中、無情に時はながれ、ひるから夕へと日は傾いていき、やがて、街は黄昏の薄闇に包まれて行きました。私は日報と呼ぶ売り上げの報告の書類にわずかに書いた乗客の売り上げの記録に失望と大きな苛立ちを覚えつつ、あてどもなくただ、一心不乱に客の人影を探りながら車を走らせていました。

そしてさらに、宵闇が街を覆うに連れ、道は行き交う車のライトで眩くなって行きました。「ああ、たまらん、なんとかならんかなあ…。別の場所に変えるかな…」私は、空しく、悲しい思いで胸がつぶれそうになりながら、尚も走りました。「もう今日はだめだ。見込みがないな。もう営業時間も無くなってきたよ」

私が、仕事を切り上げようと、心に決めかけて恨めしく町の灯を睨んでいたその時、遥か遠くに手を振る人の姿が、見えました。「おっ、久し振り!」私は速度をゆっくりと落としながら車を道の傍らへよせて行きました。幼い男の子でした。その子は手提げを持ったお母さんに手を引かれながら、手を振っていました。

「運転手さん止まってくれて有難う」ドアを開けるとその子がひょっこり覗いてにっこりと微笑みつつ言いました。「いや、いや!」思わず、私はその子に笑いかけました。私にはその子が天使に見えました。「宜しくお願いします。」母親が子供に続きました。

私は弾んだ声で、「有難うございます、どちらまで」と叫ぶように言いました。するとその子供のかん高いつやのある声が応えました。「堀川寺の内」。「堀川を北へ向かって、立体歩道橋をくぐってから西に入ってください」母親が続けました。「有り難うございます」私は黙々と、車を走らせました。

車は、行きかう車の灯や町の灯の下、幾つもの通りを過ぎ、曲がり進みました。私はそっと背後の客の様子を見やりました。ルームミラーにその幼い子供が母の膝で眠っている様子が見えました。どんどん車を進め、堀川通に入りさらに北へ向かう内、やがて前方に立体の歩道橋とその先に信号が見えて来ました。

「あの先を左です」母親が言いました。私が車は無事、目的地へ着き小さな公園の前で車を止めると母親は料金を払い、ひじに持ち物を掛け、眠った子供を背負いました。その母は丁寧な優しい声で、礼を言い、出て行きました。親子が路地の奥へ消えるまで私は、静かに見送りました。しばらく私は、黙ってぼんやり町の灯を見ていましたが、やがて、又、車を走らせていきました。

私がある公園の前に来た時、少し休憩を取り車外に出て、しばらく時を費やした後乗り込もうとドアを開けしなにふと、後部座席の床の何かしら不明の物に目が行きました。座席を倒して、私はそれをさぐりますとそれは小さな手提げ袋でであることが判りました。「ああ、あの子たちのか、」私は、少し、疲れを覚えつつ、会社へ連絡して待ちました。

当初は落とし主からの連絡が届いて居らずそのまま仕事を続けるのも厄介なので私は手持無沙汰のままその公園で暇を潰して居ましたが、やがて暫くして母親から連絡が入り、その親子の住所がわかりました。私はとるものもとりあえず、そそくさと親子の降りたところへ向かいました。

私が親子の降りた場所に着くと既にそこにその母親の姿がありました。「どうも済みません、うっかりしてて、あの子が落としたんです。」彼女は、とても丁寧に、恐縮した様子で言いました。「私こそ、ちゃんと見てあげられなくて」私は頭を下げました。私が忘れた手提げを差し出すと彼女は小さな白い封筒を差し出しました。「これは、あの子が書いたものです。読んでやってください。もうあの子は寝てます」

それは、子供用の絵入り封筒で中に一枚の子供用の便箋が入っていました。「運転手さん、届けてくれてありがとう。今日も元気で頑張って気をつけて乗ってね。」私は今もその手紙を机の引き出しに仕舞い続けています。


27歳 女性のストーリー
服飾を専門としている大学に通っていました。そのため何かあれば小物を作ったり、服を常に作製してました。
大学時代に仲が良かった5人組の1人の子が結婚すると聞き、その他の4人で結婚する子のウェディングドレスを作製しました。
結婚する子も含めてデザインから決めました。1年以上前から始めました。デザインを決めて、パターン(服の型紙)を作製し、
何度も体のシルエットが一番綺麗に出るように何度も補正をして、作製しました。
みんな仕事をしていたので、仕事の合間を探して4人で協力して作製しました。それぞれの仕事が終わって集まったりして
作製したのでかなり大変でしたが、とても楽しかったです。
結婚式当日に私たちが作製したウェディングドレスを着ているところを目にしたとき、とても感動しました。
花嫁さん(友達)がとても綺麗で見とれてしまいました。
自分たちが作製したドレスをとても可愛く着こなしてくれてとても嬉しく思いました。
それまでは自分のためだけに作製していた服が多かったのですが、
誰かのために作ることはとても嬉しく、感動するものなんだとその時感じました。
23歳 女性のストーリー
つい先日の記憶にある感動話です。
その時は家を出た時は小雨でしたが、駅に向かって歩くに連れ雨が強くなり私は恥ずかしながら、道に捨てられていた傘をお借りしました。そのまま向かった先は、友人の結婚式場探し。とても綺麗で煌びやかな場所でした。格好は適しているものの、道で拾った傘だけは少し汚れも目立ち不適切でした。少し恥ずかしい気持ちもありながら、会場に傘を預け約3時間の見学を終え帰りに傘を受け取りました。その時、私に渡された傘はピカピカの綺麗に畳まれた傘でした。なんと、スタッフさんが汚れを綺麗に拭いておいてくれたのです。その会場全体の雰囲気も気に入った最後に、そんなに素敵なお心遣いもいただき私はとても感動しました。
小さな感動話ですが、よく体験する事ではないこの経験に胸が打たれました。
32歳 男性のストーリー
今私は3人の子供がいてその内の長男(小学2年生)が知的障害をもっていて、普通の子と比べて国語や算数などはまだ1年生の内容を学校で習っていて、1年生の時から友達とかの輪の中にも入れていないので親としては心配なことがたくさんあるのですが、2年生の一学期の終わりあたりに授業参観があり、簡単な英語の授業でその時に今までの授業参観ではモジモジして「早く終わらないかな」みたいな感じだったのが今回の英語の授業では自分が分かることは積極的に手を上げて答えていたというのと周りの友達とも仲良く一緒に作業している姿も見て、授業が終わってからも先生や友達と仲良く話している息子の姿を見た時が僕が今までで一番感動した出来事です。
31歳 女性のストーリー
2年前祖父が大腸ガンになりました。
92歳と高齢ではありましたが、手術を選択しました。
やはりリスクは覚悟してくださいと医師から言われ、最悪の場合、人工肛門になる可能性等と説明されました。
手術は無事に終了。
転移もなく、人工肛門になることもありませんでした。
そんな奇跡を起こした祖父でしたが、手術後私が祖父のお見舞いに行くと、酸素マスクをしているもののとても苦しそうでした。
酸素の吸い込みが良くない、とのことで検査をすると血栓が肺に飛んでしまう肺塞栓症になっていると。
このまま人工呼吸器に切り替えます、切り替えたらおそらくそのまま取れることはないでしょう。
宜しいですか?と主治医に聞かれました。
その時病院にはまだ私と叔母しかいなくて、その決断をすることが良いのかすら分からないまま、泣きながらお願いしますとしか言えませんでした。
足が悪くて外出できない祖母に会わせてあげるべきかとかさまざまな想いが込み上げましたが、私たち家族ができることは祖父の生命力を信じることだと、祈り続けました。
祖父はまたしても奇跡を起こし、数日後人工呼吸器が外れ、自ら歩き、食事も再開したのてす。
入院前と変わらず、好きな食べ物を自ら食べれるという幸せを祖父は感じたそうです。
現在も祖父は元気です。
祖父がこうして元気でいることに日々感謝しています。
94歳まだまだ長生きしてもらいたいです。
35歳 女性のストーリー
月並みではありますが、親の偉大さには感動を覚えます。
私自身はまだ親になった経験がなく、誰かのために必死になったり、誰かのために何かを我慢したり、そういった経験はありません。
母親には毒親である私から見て祖父にあたる人物が居ました。
彼のせいで幼少期は夜逃げ同然のような生活をも強いられました。
そのような生活を支える父親も、私たち子を守ってくれる母親も幼いながらに心強かったのを覚えています。
私が成人してだいぶ経った頃に、何度も殺されかけたり、色んなことがあったと聞きました。
祖父を殺して母親も死のうと何度も思ったと…。
ですが私たち家族のために耐え抜いて、今は祖父も病気で他界し、平穏な毎日を過ごしていて、母親は毎日幸せだと笑っています。
そんな両親の背中を見て育ち、両親の愛情や責任、多方面から「感動」を覚えます。
22歳 女性のストーリー
中学受験での経験が今まで1番感動した体験です。
私はとある私立女子中に行きたくて、小学五年生から勉強をしていたのですが、受験当日が迫るな中、中々成績が伸びず、模試でも、合格率はいつも20パーセントラインでした。でも、行きたいという気持ちは本物で、小学校は休みがちになってしまいましたが、塾に缶詰になって通い、先生に毎日マンツーマンで勉強を見てもらっていました。人生で1番勉強していた時期だと思います。
同級生が楽しそうに外で遊んでいるのをみると私も遊びたくなりましたが、我慢して塾に通い続けました。
合格発表の日、気分が悪くなりながら、結果を見に行きました。私は自分の番号が書いてあろう掲示板の前に立った時、中々見ることはできませんでした。でも、意を決して見た瞬間、真っ先に自分の番号が目に入って来ました。
その時に、努力は報われたと思い、涙が溢れて来ました。
それが私の1番感動した話です。
45歳 女性のストーリー
私が熱中症になってしまい、仕事から帰ってきて横になっていた時のことです。小学生と幼稚園生の子供がいるのですが、上の子が私の代わりに洗濯物を入れて畳んでくれたり、下の子のトイレやお風呂の世話をしてくれたり、夕飯も簡単なものですが、メニューも考え支度までしてくれたことがありました。
具合が悪く寝ている私の頭に冷えピタを貼ってくれ、身体を冷やすために保冷剤も持ってきてくれたりして、本当にびっくりしました。
いつもはケンカばかりの二人ですが、この日はケンカすることなく、ご飯も仲良く二人で済ませ、洗い物もしてくれました。
そして私にお粥まで作ってくれたんです。まだまだ小さいと思っていましたが、本当に感動した1日でした。
20歳 女性のストーリー
今まで1番感動した話は、両親の話です。
私の母は現在53歳、父は60歳です。
2人が結婚したのは今からちょうど20年ほど前。
2人は結婚したのが周りに比べてかなり遅めでした。
母は結婚前、20代後半で盲腸に苦しみ、お腹に横一に大きな傷があります。
大きな段差のようになっており、温泉などでも体を見せることに抵抗があるようです。
若い頃に体に大きな傷を負い、精神的にも辛い思いをした母は、結婚するときになってその時のことを思い出しました。
体に大きな傷がある、こんな傷では気持ち悪がられてしまうかもしれない、まだ若いのに、、、そう暗く考えてずっと父に言い出せませんでした。
その後、時間を置いてゆっくり話し出すと父は『健康ならそれでいい、傷は見えないから』そう言ってくれたらしいです。

それをきっかけに結婚に前向きになれたと聞きました。
23歳 女性のストーリー
私が、小学校2年生の時に妹が生まれたことが1番感動しました。
その日は休日だったので母親が入院している産婦人科に祖母と一緒に行きました。
私は、生まれてきた妹をみてぎゅっとしたいくらい可愛い顔が大好きだと思いました。
それからは、いつも妹にべったりでもう可愛くてしょうがなかったです。
あんなに小さかった妹がどんどん成長していく姿を見ると感動していつも妹のイベントがあるたびに泣いていました。
卒園、卒業などの写真はいつでも見られるように玄関に飾ってあります。
今現在は、立派に成人を迎え医師として働いています。
その逞しい姿は誇らしく自慢の妹です。
今では少し反抗期なのか生意気ななんですが、それもたま可愛いのでなんでも許してあげたかなります。
これからも可愛い妹でいてほしいです。
39歳 女性のストーリー
子供が産まれた時が一番感動しました。
25歳で結婚し、子供は欲しかったけどなかなか主人に欲しいとは言えず、さらに仕事も忙しく夜勤をやっていて、人も少ないし、妊娠したら夜勤も抜けないといけないから迷惑をかけると思いなかなか作る事が出来ませんでした。
しかし、30を過ぎ、どうしてもほしいと思い、主人と相談。
私は3姉妹で他の2人は流産経験があるので、私も不安があり授かったと分かった時にはとにかく大事に大事にと思ってました。
何か替わった事があればすぐに病院に連絡、申し訳ないと思いながら会社を休んだ事もありました。
36週の検診で急遽帝王切開。
翌週にしました。
麻酔が強くずっと嗚咽してました。
お腹から出た時には産声は聞こえず、しばらくして看護師が子供をつれてきました。
元気な女の子ですといわれた瞬間一気に涙が溢れてきました。
3日後には病気が判明。
一生付き合わせなきゃいけないのですが、子供は元気に育ち今は5歳です。
確かに他の子より弱いですが。
この前も病気になってごめんねって言ったら大丈夫だよって。
もう涙が止まりませんでした。
遺伝性でいきなり突発で発症してしまいましたが、病気にも負けず優しい子に育ってくれているので今は安心しています。
41歳 女性のストーリー
妊娠、出産ですね。
妊娠した時は、本当に本当に嬉しくて、幸せな気持ちになりました。
自分がずっと望んでいた事が叶ったこと、そして、自分の体に生命が宿ったという不思議な気持ちでした。
3人出産しているのですが、みんなそれぞれ違った感動がありました。
初めての出産は、ドキドキ、ワクワクが大きくて、陣痛がきた時は、その痛さにビックリでした。
陣痛の時間が長くて、お腹を切って欲しいと思う位、辛かったのですが、産まれた瞬間、痛さが吹っ飛びました。
可愛い赤ちゃんを目の前にしたら、本当に感動しました。
辛かったけれど、本当に嬉しかったし、感動的でした。
2人目は、陣痛の痛さを思い出して出産間近になると怖くて、怖くて仕方なかったです。
3人目も同様に怖かったのですが、出産は感動的でした。
24歳 男性のストーリー
私が今までで一番感動したのは登山をした時です。
富士山のような有名であったり過酷な山というわけではありませんが、人生初の登山ということもありとても大変でした。
半分ノリで登山を決めたこともあり、途中何度も登山をやめて下山しようと思いましたが、一緒に登山していた友達に励ましてもらいなんとか諦めることなく登りきりました。
その時に山頂から見た景色は今まで見た景色の中で一番美しく見え、その時に諦めることなく登山を続けてよかったと感動しました。
その経験は今でも生きていて、日常生活で辛いことがあっても諦めることなくできるようになったのはこの経験があったからだと思います。
今では登山が自分の一番の趣味になり、今度は富士山にも登山しようと思っています。
49歳 女性のストーリー
5年前のクリスマスに夫から車の鍵を貰いました。
鍵を見て車種は分かりましたが、まさかと言う気持ちがありました。
住まいの地下駐車場に行ってみると、1台のメルセデス・ベンツが停まっていて、え…まさかこの車の鍵?と思っていたら、夫が「今まで文句も言わず頑張ってくれたから」と言い「クリスマスプレゼントだ」とベンツを買ってくれた事です(写真提供出来ます)。
この話だけだと自慢?と思われるかもしれません。
ですが私は、今住んでいる国の言葉が全く分からない状態で嫁いできて、夫の仕事の(国家資格を活かした自営業)サポートを懸命にしてきたつもりでいます。
車のプレゼントに感動したのではなく、自営業のサポートを始めたのが40歳を過ぎていましたので、この年齢からでも頑張る事が出来るのだと、車をプレゼントされる程になった自分自身に感動しました。
多分、ここが海外だからこそ感動が大きかったのかもしれません。
23歳 女性のストーリー
友人が事故にあった時の話です。
友人は車が好きで、よく知り合いと車でドライブに行くことが多くあったようです。
友人達はある時に、走り屋が集まるような場所で運転をしていました。
ひょんなことで単独事故を起こしてしまい、身動きが取れなくなってしまったらしいです。
困っていたところに通りかかったのは、スポーツカーの集団。
怖い人ばかりでどうなることかと思いましたが、車を寄せて止まり、後続車が通れないように通行止めにした上に友人を助け出してくれたそうです。
その後、警察に連絡をし事なきを終えたらしいのですが、助けてくれた彼らに友人は本当に感謝しているそうです。
友人は命に別状がなく、今も元気に過ごしています。
もしあの時彼らが助けてくれなかったら…と今でも思うそうです。
27歳 女性のストーリー
仕事上での出来事です。
専門学校で教員をしています。当たり前ですが、ほとんどの方が未経験で入学をしてきます。また、中には既卒で入学をされる方もいますが、9割以上が高等学校卒業後、すぐにそのまま入学をしてきます。
在学中は、高等学校とほとんど変わらない時間割で授業を行っているので、専門学校に進学したとはいえ高校生気分が抜けず、その様子に注意をしたりということも多くあります。在学生とぶつかることもしょっちゅうです。
ですが、教員の醍醐味だと思いますが、普段は注意を受けることに対して怪訝そうにしていた学生も、卒業を迎えると「あの時注意、指導をしてもらえてよかった」と口にしてくれます。その時の感動といったらこの上ありません。卒業後就職をしてすぐにこういった事を感じてくれる卒業生や、少し時間が経ってから振り返ると思い出したように感じてくれる卒業生など、人によって様々です。指導する立場として、なかなか学生に対し自分の指導する気持ちが伝わらず、もどかしく感じることも多いですが、全てが報われ、感動を感じる瞬間です。
25歳 男性のストーリー
私が12歳(小学校6年)のときの思い出です。

私の担任の先生があまりにも厳しすぎたことで有名でした。
特に私が苦しめられた思い出が、忘れ物をするとグラウンドを10周(3km)走らされるというものでした。
当時私は忘れ物をしがちで、さらに運動神経が悪かったのでこのペナルティは絶望的なものでした。
もういっそのこと死んでしまおうかとも考えました。
しかし、なんとか耐えに耐え切って小学校を卒業することができました。
卒業証書を手にしたときは号泣していました。
クラスの皆も私が卒業証書を手にする瞬間大拍手で祝ってくれました。
私がどれだけ辛い思いをしてきたかわかってくれたからでしょう。
忘れ物をしたのは自業自得ですけどね(笑)人生で一番スカッとした出来事でした。
36歳 女性のストーリー
社会人1年目で、右も左もわからず、同期もいなかったので相談できる人もいなく、朝が憂鬱でした。
まだ慣れない運転で会社に行き、接客業だったので、お客様とのコミュニケーションを取らなければいけない、笑顔でいなければいけない。
先輩たちにも気を遣わなければいけない、そんな毎日でした。
ある朝、その日は雨が降っていました。
車を運転していると信号が赤になり、信号待ちをしていると、横断歩道で同じく信号待ちをしている男子高校生と、おばあちゃんがいました。
男子高校生とおばあちゃんは明らかに他人なのですが、おばあちゃんは持っていた傘に男子高校生も入れてあげました。
信号が青になると、男子高校生は照れくさそうに頭を下げ、おばあちゃんもニコニコ笑い、たった何秒か傘に入れてあげた、その光景を見ただけなのですが、とても心が温かくなり、私も傘に入れてあげれられる余裕を持とうと思いました。そして、ちゃんとお礼ができる人間になりたいと思いました。
36歳 女性のストーリー
高校受験の時だと思います。
幼稚園から大学まで、全ての節目で受験を経験してきました。
しかし、どれも上手くいきませんでした。
受験のための塾の費用をかけてもらったにも関わらず、小学校、中学校と受験に失敗し公立の学校へ通いました。
しかし、高校受験はそうはいきません。
全ての学生が受験を経験します。
私もリベンジも兼ねて中学2年生の時から行きたい学校の目星を立てていました。
中学2年生まで順調に成績を伸ばしており、少し偏差値の高い学校の受験も目指していました。
しかし、中学3年の2学期。
受験に必要な成績を打ち出すべき時期に私は過去最低の成績をとってしまったのです。
これまでの失敗の不安がよぎりました。
志望校の一変させ、それまで余裕だと思っていた中学受験の第一志望だった学校の高等部の学校を第一志望へ変更し、合格できる方法があればただひたすらにその方法を信じてやり抜こうと決め、塾の先生に泣き付いて指導してもらいました。
英語が特に苦手で、思うように成績が伸ばせず本当に苦労しました。
できる努力を最大限にし、迎えた当日。
奇跡が起こりました。
一緒にその学校を受験する友達と一緒に会場へ向かったのですが、その電車の中で、友達が不意に数学の公式を話題にしたのです。
その公式は自分でも盲点だったので、その場で必死に覚えました。
そしていざ試験問題と向き合うと、電車で話題になった公式を使う数学の問題が出題されたのです。
さらに、苦手な英語の問題は、過去問では考えられないほど英語の文章量が少なく、設問も基本的な問題がほとんどでした。
合格発表の日、当時は学校の掲示板まで行かないと自分の合否がわからない時代だったので、掲示板まで母と一緒に向かい、そこで自分の受験番号を見つけました。
嬉しすぎて走り回っていました(若かったので)。
自分の番号があるという経験も初めてでしたし、合格できた学校は中学受験で失敗した学校。
最高のリベンジのできた生涯わすれられない体験です。
努力は報われるという最高の経験ができました。
38歳 女性のストーリー
ピアノを5歳からしてまして、夢がピアノコンクールで入賞することでした。
反抗期の時期もあり、一度はやめたピアノを再び復活させて、一から練習をして、とにかくコンクールにたくさん出ましたが、なかなか入賞できず、予選で落選ばかりする日々を過ごしていました。
ピアノコンクールは多額なお金ですので、何回も出場するにつれて、お金も底をついてきたころ、あきらめかけていた時に、最後のチャンスと自分で覚悟を決めて、出場しました。
全ての力を振り絞り一生懸命感情を込めて演奏しました。
そうしましたら、生まれて初めて優秀賞とオーディエンス賞をいただきました。
本当にあきらめない気持ちが実を結ぶんだと、確信できた出来事でした。
31歳 女性のストーリー
私は統合失調症という病を患っております。
この精神病は、発症すると、「妄想・幻覚・幻聴」など、周囲が全くゆがんで見えてしまいます。
しかも、病気の本人は自分が病気であることを認めません(病識がないのです)。
それほど、ひどい精神病です。
私はこの病を何度か再発して、治ったり、といったことを繰り返していました。
そして、5年前、またこの病気が再発しました。
ついに初めて、精神病院に入院することになりました。
そして、その時、私は妄想の中で、親友の「Y」を妄想で「悪い奴だ」と思い込んでいたのです。
「Y」は私の長年の親友で、彼女自身も身体が弱い中、精神病院に入院したという私のことを心配し続けてくれました。
病院の中にいる私は「Y」を妄想の中でずっと憎んでたというのに!私の病気は徐々に快方に向かっていましたが、「Y」はまだ私の中で悪者でした。
しかし、ある日、そんな妄想の中の私へ「Y」から手紙が届いたのです。
心配する温かい言葉たち……。
私の中で、妄想が崩れ始めました。
そして、ついに退院してから「Y」に電話すると「Y」は電話口で号泣したのです。
私のことを思って。
ガラガラと私の妄想は崩れ去りました。
それが人生で一番感動した私の体験談です。
34歳 女性のストーリー
息子を妊娠、出産したことです。
付き合ってから結婚するまでがとても長く、正直子供を作ることは当初考えていませんでした。
居たら可愛いだろうけど二人でも充分楽しいよね、と夫婦間での意見も一致していました。
ところが翌年、運良く子宝に恵まれ初めての妊娠生活がスタートすることになりました。
時期は夏で気持ちが悪いし身体は怠いしなにもできないのジレンマで連日泣いて吐いてを繰り返し、悪阻期間が終われば今度は安定期まで慎重に過ごす日々が続き、時々どうしようもない不安に襲われつつも、特にこれと言った問題もなく超安産で無事に出産することができました。
と、いっても陣痛はそれなりに痛かったし分娩台に上がってからも苦しみましたが、産まれてきた我が子の顔をみた瞬間、全ての苦しかった日々も痛かった陣痛も不安も全てが吹き飛びました。
こんなに感動できる体験は後にも先にもありません。
32歳 男性のストーリー
私の誕生日は夏休みのお盆中で、毎年田舎に行っていたので親族以外に祝われたことがありませんでした。
学校を卒業し仲の良かったみんなとバラバラになった最初の年。
夏休みの終盤にむりやり友達にご飯に誘われ、若干いやいやでは行くことにした。
待ち合わせをしみんなでお店に着き、近況について語り合っていた。
時間が経ち、そろそろ解散の頃合いかなぁと思っていたところ、いきなりです。
店員がケーキを運んできました!最初はなんのことやら理解ができなかったのですが、
みんなから『少し遅いけど誕生日おめでとう!』と言われ気づきました。
初めて親族以外に祝われれ、正直どういう反応をしたらいいのかわからなかったのですが、
すごいうれしかったです。あとで友達に言われましたけどやはり反応が薄かったみたいです(笑)
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