"おばあちゃん" に関するエピソード

「わたしの周りで一番お金持ちの人」

31歳 女性のストーリー
友人は都心に家を持っていて、家族の人数分車所有しています。
もちろん駐車場付き。

お肉はブランド牛のA5ランクしか食べたことがないそうで、自宅で料理するときもA5ランクのお肉を配達してもらうんだとか。
またおばあちゃんの自宅には、一般人には馴染みのない行商さんが来て、宝石やら毛皮やら高級品を売るそうです。
それに対し、欲しいものがなくても、何十万もするものをお情けで毎度毎度購入するそうです。
どうしてそんなにお金があるのか、はっきりとした事は分かりませんが、戦後の土地が安い時に都内の土地をたくさん買ったとかで、それを上手く運用している様子。
いい土地を持っていると、子孫にも楽をさせられ、余るくらいお金があるんだなと驚きました。
57歳 女性のストーリー
わたしの周りで一番お金持ちなのは、娘だろうか。
なにしろ、毎月お小遣いをもらい2ヶ月に1度はわたしの実家へ行った際に
母方のおばあちゃんからお小遣いをもらい、
年4回の夫の実家への帰省で父方のおばあちゃんからお小遣いをもらい、
正月には叔母さんや親戚からお年玉をもらっているのだから。
しかも、洋服とか本や文房具などの出費は親持ちなので、
純粋に自分の欲しいもののみにお小遣いを使えるのだ。
親の方といえば生活のために出費、娘の学費のために出費、夫の仕事の必要経費と
自分のためにお金を使う余裕などなく、読みたい本は図書館で調達し洋服はちまちまと着まわし、美容院へは年に一度行くか行かないか、しかし一向にギャラは上がらずむしろ下がる傾向にあるのだからまったくあわない話だ。
これで娘は大学に入学してアルバイトでもするようになれば、さらに収入は上がり、
我が家の中で一番お金持ちなのは間違いなく娘だ。

「今までで一番感動した話」

36歳 女性のストーリー
社会人1年目で、右も左もわからず、同期もいなかったので相談できる人もいなく、朝が憂鬱でした。
まだ慣れない運転で会社に行き、接客業だったので、お客様とのコミュニケーションを取らなければいけない、笑顔でいなければいけない。
先輩たちにも気を遣わなければいけない、そんな毎日でした。
ある朝、その日は雨が降っていました。
車を運転していると信号が赤になり、信号待ちをしていると、横断歩道で同じく信号待ちをしている男子高校生と、おばあちゃんがいました。
男子高校生とおばあちゃんは明らかに他人なのですが、おばあちゃんは持っていた傘に男子高校生も入れてあげました。
信号が青になると、男子高校生は照れくさそうに頭を下げ、おばあちゃんもニコニコ笑い、たった何秒か傘に入れてあげた、その光景を見ただけなのですが、とても心が温かくなり、私も傘に入れてあげれられる余裕を持とうと思いました。そして、ちゃんとお礼ができる人間になりたいと思いました。

「死ぬかと思った話」

25歳 女性のストーリー
地元に居た時に原付を運転していて、車と接触事故を起こしそうになった
コンビニの早朝のバイトが終わり、住宅街や工場がたくさんある裏道のようなところを原付で走っていた時、
自分は直進で、車が曲がってくるときにドライバーさんに原付の存在を見てもらえなかったのか、それとも曲がれる距離だと思ったのかわからないけど目の前まで車が来て引かれると思った。
原付は黒だったけど、ヘルメットは白で服装も蛍光のオレンジなど明るい色を身につけてドライバーさんに原付で走っていることをちゃんと見てもらえるよう
個人的には色んな対策をしていたが、今回ぶつかりそうになった人はおばあちゃんだった。
ぎりぎりの所で車を運転している人も気づき、ぶつからないように少しよけていたのでぶつからずに済んだけど、あの時はさすがに死ぬかと思った。

「」

28歳 男性のストーリー
バツイチの彼氏と先日別れた。
前の奥さんと子供がまた一緒に暮らしたいって。
俺には責任があるからって。
ごめんなさいって泣きながら言われた。

カッコつけて、それはしょうがないよね、
次は幸せになるんだよって言ったけど
抑えきれずに昨日電話しました。

やっぱり別れたくないって。
シワシワのおじいちゃん
おばあちゃんになるまで一緒にいたいって

ずっと一緒にいたいって。
年をとっても一緒に美味しいものを食べて笑顔になって、
一緒にきれいなものを見て笑顔になって、
あなたはカメラでそれを撮って
私はそれを見て笑っていたいって。

たくさん悩んで悩んで、
悩んで決めて思いを伝えてくれたのに
また困らせてごめんって。
自分勝手でごめんって。
子供には申し訳ないけど、私を選んでほしいって。
素直に送り出せなくてごめんって。

性格悪くてごめん、
でもあなたの居ない未来が見えないって。
一人にしないでほしいって。
優しさに漬け込んでごめんって。

泣いたら困らせるってわかってるのに止められなかった。

あの人も電話口で泣きながら、
好きなのに別れなくちゃいけないのは俺も辛いって。
泣かせてゴメンな。ちゃんと考えるからって。

責任感のすごい強いあの人のことだから、
どっちを選ぶのかなんて心の中では
分かってるのに期待しちゃう。

早く答えを聞きたいけど聞きたくない。
あの人との繋がりを手放したくない。

手放すにはあなたとの思い出が多すぎる、


これが私の大失恋です
まだ立ち直れておりませんが
ゆっくりと傷を癒していこうと思います

「今だから言えるごめんなさい」

42歳 男性のストーリー
小学校6年生の夏休みに母親の実家のおばあちゃんの家に弟と二人で遊びに行きました。
新幹線にローカル線にと電車を乗り継いで7時間ほどかけてやっとの思いでおばあちゃんの家に到着しました。年に数回しか会うことができないおばあちゃんは、僕たちにとってもやさしくしてくれました。1週間ほどおばあちゃんの家で過ごすとだんだんわがままばかりを言うようになっていました。自分の母が子供たちに接している姿を見ているとあのとき自分がおばあちゃんにどれだけ迷惑をかけたのかなあと思います。おばあちゃんが亡くなって20年ほど経ちますが、今でもあのときわがままがかり言ったことを思い出し、おばあちゃんにごめんなさいと謝りたいです。
27歳 女性のストーリー
私にはもうおじいちゃんおばあちゃんはいません。全員亡くなってしまいました。
そのなかで、父親の方のおじいちゃんおばあちゃんに申し訳ない気持ちがあります。
それは私が小学校のときからずっと、父親の弟の叔父夫婦以外からは常に姉と比べられ、
姉贔屓にされて、従姉妹とは年が離れているためか相手にされずいじめられていたことから、親族の集まりを拒否し続けていたことで、おじいちゃん達と何年も会えておらず、
とうとう亡くなる直前までうまく話せずにいたことをとても悔やんでいます。
なんでもっと早くに会ってあげられなかったのだろうか、なんでもっと早くずっと不参加にしていたことを話せなかったのかと喪って初めて謝りたい気持ちでいっぱいになりました。
23歳 女性のストーリー
私が中学生の頃の話ですが、
おばあちゃんは長年500円貯金をしていました。
可愛いたぬきの大きな貯金箱だったと思います。
何キロにもなるほど500円貯金をしていました。
ある日、一緒に数えようと言ってきたので一緒に数えました。
おばあちゃんはいつも私にお小遣いをくれるので
今回も数え終わったらくれるだろうと
自分でも分かっていたのですが
数えながら結構な額をくすねていました。
数え終わって一万円ほどお小遣いをくれたのですが
くすねた額を合わせると二万円程になっていたと思います。
その一回ではなく二、三回同じようなことを
したと思います。
おばあちゃんが気づかないことをいいことに
すごく申し訳ないことをしたなと今になって思っています。ごめんなさい。

「どうしても許せないこと」

54歳 男性のストーリー
どうしても許せないこと。それは電車の優先席に座ってずっとスマホを見ていて、近くにその席を必要とする人が乗ってきても全く気付かずに堂々と座っている人。そして、ドアの前に立って、乗り降りする人の邪魔になるのに全く場所を譲ろうとしない人です。
優先席なので、その席を必要とする人がいなければ座っても構わないと思いますが、私がその席に座っている時は、駅について人が乗ってくるときは必ず周りを見回し、譲るべき人がいないかは常に気にしています。もしおじいちゃんおばあちゃんや妊娠中の女性がいたらすぐ譲れるように。
最近はみんなスマホを見ていて全くまわりに気づかず、意識さえしていないように思えます。「お前の席じゃねぇよ!」と言ってやりたいですが、最近は注意すると殺されちゃう世の中なのでうかつに注意もできません。そんな状況を見つけると、イライラして仕方ないですね。

「忘れられない夏休み」

41歳 男性のストーリー
小2の夏休み、おばあちゃんの家へ行って、従兄弟達と会って遊んでいました。私は、おばあちゃんが履いていた普通のサンダルが何となく好きで従兄弟達と外で遊びに行く時に、必ずそのサンダルを履いて遊んでいました。おばあちゃんの家は、日本の名水百選などにも選ばれる綺麗で美味しい水が流れている土地で、川の側溝も、都会にはなかなか無い幅広さでした。
僕と従兄弟は、公園でゴムボールとプラスチックのバットで野球をして遊んでいた時に、僕が打ったボールが公園の外の道路まで飛んで行きました。
慌てて、従兄弟達と走って取りに行った時に、小2の自分にはまだサイズが大きいおばあちゃんのサンダルが脱げて側溝に落ちてしまいました。おばあちゃんのサンダルはゆっくりと流されて行きました。おばあちゃんのサンダルを失くしてしまったら大変だと思った私は、側溝に降りて、川の流れに逆らいながらサンダルを追いかけました。その側溝は、上部にコンクリートで出来た棒状の仕切りが等間隔に取り付けられていて、自分は、それを避けながら追いかけていたんですが、サンダルを必死で追いかけるうちに、仕切りに頭を何度かぶつけました。
痛いなと思いながらも、サンダルを取る事しか頭に無い自分は、気にせず追いかけましたが、どんどんサンダルは遠ざかって行き、諦め始めた時、上から見ていた1つ上の従兄弟が私の頭を指差し「血が出てるよ」と言いました。額に手を当てると、ドロっとした血が手に付いていました。驚いた自分は、泣きながら側溝から出て、道で号泣。すると近くでバトミントンをしていた中学生くらいのお姉さんが、血を流して泣いている自分を見て、私を抱えながら、従兄弟の誘導でおばあちゃんの家まで走って連れて行ってくれました。その後、親族は大慌てで、病院へ連れて行き、結果、頭部を7針縫うケガを負いました。
29歳 女性のストーリー
毎年小さい頃、夏休みには父方の実家の鹿児島に帰っていました。親戚やいとこと遊んだり、鹿児島の名所桜島や海に行ったりと楽しかった思い出がたくさんあります。
その中でも20年以上前に亡くなってしまったおばあちゃんとの思い出が忘れられません。
おばあちゃんとは私たちが住んでいる大阪、鹿児島とで距離がある為、会えるのは毎年1回ほどだったので少ししか会った記憶がありません。そして目が不自由だということもあり鹿児島に帰って来た時には覚えてくれてるかな〜と不安でした。でも毎回おばあちゃんは声だけで分かってくれて、頭に手をあてて「背が伸びたね」と笑顔で言ってくれました。離れてても覚えてくれていた嬉しさは、子どもだった私にとって忘れられない思い出です。

「一番おいしかった食べ物」

30歳 女性のストーリー
一番おいしかった食べ物は、おばあちゃんのから揚げです。
小学生のころ、毎週のように母方のおばあちゃんの家に家族でお泊りに行っていました。おばあちゃんは料理が得意で、昆布などから直接出汁をとるのは勿論、カレールーなども市販の物をほとんど使わない人でした。
私がから揚げが大好きで、おばあちゃんは私たちが止まりに来るたびにから揚げを揚げてくれました。一口目に醤油とニンニクがガツンときて、噛み締めていくと甘い鳥の油があふれてきて、最後にふわりとショウガの香りが鼻から抜けていく。
作り方を見ても、特に隠し味などの特別なことはしていないのに、お店とは違う独特なあの味が今でも忘れられません。当の本人に聞いてみても「適当だよ」と言われてしまい、今自分で作ってみてもあの味を再現できません。死ぬ前にもう一度食べたい一番おいしい食べ物です。
25歳 女性のストーリー
小さい頃に初めて食べた、田子の月の富士山頂というお菓子です。このお菓子は静岡にしかなく、ほかの県では買えないし、食べられません。
子供のころに食べてから、おばあちゃんが出かけた時に必ず買ってきてくれて、毎日二個以上は食べないときめていて、大切に食べていました。
大人になってからはどうしても食べたくなった時に買いくので、食べる回数は減ってしまいました。
県外の大学に通っていて、友達に大好物はなにと聞かれたことがあり、富士山頂と答えたら、当たり前だけど富士山頂を知らないので、買って行って紹介したこともありました。
好きすぎて、就活のときに田子の月に就職を本気で考え、説明会にも行きました。
最終的には就職はしませんでしたが、いまでも大好きなお菓子です。

「おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出」

40歳 女性のストーリー
我が家は両親共働きだったので、幼いころから祖父母宅で面倒を見てもらっていました。
おじいちゃんは厳しい人でおばあちゃんは優しい人でした。
おじいちゃんは、ご飯の食べ方がおかしかったらすぐ注意したり、行儀が悪かったら怒ったり・・とにかくマナーに厳しかったです。
おばあちゃんは優しくて、時間持て余して暇な私に手芸を教えてくれたりマンガを買ってくれたり好きなお絵かき出来るように自由帳とか鉛筆など用意してくれました。
実際は反対で、ご飯食べ終わった後おじいちゃんおばあちゃん2人でご飯食べてる時、しょっちゅうおじいちゃんがおばあちゃんに怒られているところを見て、実はおばあちゃんは怖い人なんだ、と幼いながら思いました。
44歳 女性のストーリー
母方の祖父の思い出です。
母は末っ子だった事もあり、きっと祖父から1番大事にされていたと思います。
私はその母の娘であり、祖父にとって孫の中で1番下の孫でした。
とても可愛がってもらっていました。
私が小さい頃、夏休みや冬休みなどはよく長期で遊びに行っていました。
夜寝る時は、いつも祖父宅の2階に母と一緒に布団を敷いて寝ていました。
しかし夜中になるとふわふわと動いている感覚で目が覚めます。
でもまたすぐに眠りについてしまうんですが、朝目が覚めると祖父の隣で寝ています。
そんな事が毎日続きます。
最初から隣で寝かせればいいのに、なぜかそういう事はなく、祖父は必ず、寝ている私を2階からお姫様抱っこように抱えて自分の隣に連れて行っていたんです。
祖父に抱えられている時の温もりを、今でも忘れられません。
35歳 男性のストーリー
私が小さい頃、毎年お盆休みになると家族全員で福島県に住んでいる母方の祖父母の家に遊びに行っていました。
自然豊かな地域に祖父母の家があり、祖母は畑で採れた野菜や果物をたくさん食べさせてくれました。トウモロコシ、スイカ、梨など、その場で採れたてを食べるとこんなに美味しいのかと感動したものです。
祖父はトンボやカブトムシ、ザリガニ等をとりに連れていってくれました。大きなくぬぎの木を蹴飛ばして耳をすませると、ボトッと虫が落ちるという子どもにもできるやり方で日が暮れるまで虫とりをしていました。でもやっぱり祖父が勧めてくれる木以外では、あまりとれなかった記憶があり、祖父は虫とり名人だと憧れたものです。
祖父は私が中学生になる前に亡くなり、社会人になってからは祖母に会いに行く機会もなくなってしまいました。
仕事が落ち着いたら会いに行く機会を作りたいと思います。
44歳 女性のストーリー
お父さん方のおじいちゃんは、うちから少し離れたところに住んでいた。
いつもうちに遊びに来る時、おじいちゃんはバイクに乗って来ていた。
小さな頃からおじいちゃんが来る度にそのバイクに乗りたくて、停めているバイクに乗って、ブンブンとひとり遊びをしていた。
おじいちゃんの方言が強くて何を言っているかよく分からなくてなんとなく怖いイメージのある人だったので話すことも少なかったけど、そんな遊びをしている私に一言の文句も言わずに見守ってくれていた。
そんなに懐いていたわけでも可愛がってもらっていたような記憶もないけれど、おじいちゃんが亡くなった時はとてもショックだった。
今でもおじいちゃんの乗っていたバイクと同じものを見るとなんだかジーンとし、子供の頃を思い出す。
35歳 女性のストーリー
私とおばあちゃんとの思い出はおばあちゃんの田舎、愛媛県に連れていってもらったことです。小さい時はゴールデンウィークやお盆休み、秋祭りといった時期に姉や従姉妹たちと共に連れて行ってもらいました。小学生の頃になると、行く頻度は減ってしまいましたが、花火大会のある日に合わせて、連れて行ってもらいました。おばあちゃんの妹の家に泊まらせてもらっていたのですが、周りは畑が沢山あり、大阪出身の私にとってはその自然が魅力的でした。夏の花火大会は家から花火が見えたこともあり、すぐ近くで大きな花火を見たことが凄く印象に残っています。
おばあちゃんはもう亡くなってしまいましたが、田舎の思い出は凄く貴重な経験で、おばあちゃんとの大切な思い出です。
33歳 男性のストーリー
小さい頃によく孫たちを遊びに連れていってくれたおじいちゃん。
夢は孫たちとお酒を酌み交わすことでした。
しかし、病気でお酒を止められてしまったおじいちゃん。
普段は、おばあちゃんに止められながら何とか禁酒をしていたそうです。
ある年のお正月、数年ぶりに孫たちがおじいちゃんの家に一堂に会した時がありました。
今までお酒を何とか止めていましたが、一杯だけ解禁して夢が叶っていました。
何度も何度もやっと夢が叶った。うれしい。と言っていたので、
ホントに良かったです。
残念ながらおじいちゃんの夢が叶ったのはその一度だけ。
その後も、皆忙しくなかなか孫たちが会うことはないですが、一度でも夢を叶えさせてあげられてよかったです。
34歳 女性のストーリー
私のおじいちゃんは、とてもお金を大事にしたいた。
孫である私はとても可愛かったようで、会うといつもお小遣いをくれた。
私も大きくなり、子供を産み、おじいちゃんはひいおじいちゃんになった。
ひ孫の存在は
それはもう可愛かったようで、会うたびにお小遣いをくれた。

そんなおじいちゃんが、体調を崩し入院してしまった。
私やひ孫がお見舞いに行くと、
話せなくなってしまっていたが、
指で宙にこう書いた。

「金」

最後の最後まで、お金について伝えたかったようだ。

ひ孫である娘は言う。
ひいおじいちゃんは、いつもお金くれる人だったよね。

おじいちゃんの伝えたかったことは、しっかり伝わっていた。

ありがとうおじいちゃん。
もらったお小遣いは大切に使うね。
43歳 女性のストーリー
もう20年以上前になりますが、成人を迎える際振袖を着て某専門誌の表紙モデルになりました。
私は決して容姿に自信があった訳ではなかったのですが、モデルの謝礼と遠方に住む祖父を喜ばせたかったため志願しました。
元々写真に写るのが苦手でしたので、笑顔を浮かべての撮影はとても緊張しましたが、本を手に取った祖父がとても喜んでくれたのでやってよかったなと思いました。
その後祖父は入院したのですが、入院の際もその本を常に枕元に置いて同室の患者さんや医療スタッフの方たちに「うちの孫こんなすごい本に載ったんだぞ!どうだ綺麗だろ?」と自慢していたそうです。
その後祖父は他界してしまいましたが、いつも優しくしてくれた祖父に唯一できた孝行だったと思います。
28歳 女性のストーリー
中学生の時の修学旅行のお土産に、ミッキーとミニーのキーホルダーを買ったんですが、このお土産に祖父母がわたしの想像をこえる喜び方をしてくれ、いつかふたりをディズニーランドへ連れて行ってあげたいなと思いました。
しかし祖父はうつ病になり外出のできない日が増え、少し元気になったかなと思ったらアルツハイマー性の認知症だと診断され、また心筋梗塞になってからは急激に見た目も変わってしまい、祖母が老老介護で頑張るだけの毎日になってしまいました。ディズニーランドへ連れて行ってあげることはできまさんでしたが、
祖父は病室で息を引き取るまでずっと目を開けて祖母を見つめていたとききました。祖父の死後、祖母も足腰が悪くなり、ディズニーランドには連れて行けそうにないですが、祖母とお土産のミッキーとミニーを連れてどこかへ連れて行ってあげたいなと思っています。
36歳 男性のストーリー
認知症になったおじいちゃん。最後は僕のことをわからなくなってました。ただ昔の話だけは覚えている。そしてそれを支えていたおばあちゃん。後を追うようにおじいちゃんが亡くなったよく年には亡くなりました。一気に寂しくなったんでしょう。あの世ではきっと今も仲良く手をつないで、お互いに文句を言いながら温泉にでも行っているのかなあ。いつも自分の話ばかりだけど、常に孫たちのことを気遣ってきれました。自分も同じように生き方になりたいです。今日も努力して日々精進していきたいです。優しく接してくれたから、いつも会いに行けたよ。大好きって中々言えないけど、心では伝わっていたと思います。おじいちゃん、おばあちゃんの分まで元気で過ごしたいと思います。
56歳 女性のストーリー
子供の頃に香川の母方の祖父母の家で夏休みを過ごすのが毎年の恒例でした。田舎なのでカエルがいたり、田んぼの中のいろいろな虫を捕まえたり、井戸で冷やしたスイカを食べたり、昔の家なので トイレに行くのがとても怖くて 母にいつもついてきてもらったり、
夜はみんなで蚊帳に入って 昔話を聞くのが楽しみでした。親戚の同じ年齢の子供があつまるので いつもみんなでわいわいと楽しく遊びました。お盆になると 海まで連れて行ってもらって海で海水浴をしたりしてとても楽しかったです。おじいちゃん、おばあちゃんはとても優しく 私が母に怒られるといつもかばってくれて、いろいろな昔の話をわらいながらたくさんしてくれました。今でももう一度会いたいです。
29歳 男性のストーリー
ジージがつくった観覧車

「ジージがつくった観覧車に乗りに行こう」。父が誇らしげに、孫の手を引いています。設計を仕事とする父が一部を設計した観覧車に、私たちを連れて行ってくれました。

「ジージが設計したのはどこ?」と聞くと、「ここだよ」と父が指を指したのが、観覧車につながる通路でした。観覧車を設計したと言うから、あの回っている本体なのかと思っていたら。観覧車に乗る前に並ぶ床部分でした。でも、普通の床ではなく、たくさんの人が乗っても耐えられる強度と素材だそうです。私にはよく分からないけれど、その通路は父が頭をひねって描いたものなのです。派手さはありませんが、観覧車への夢の架け橋を父は手掛けたと言う訳です。

普段目にも止めないような当たり前のものでも、設計者が熟慮して生み出したものなのですね。そして、設計図通りに組み立てる人がいて、その上に私たちがいる。観覧車の中から外を眺めながら、父の仕事を誇りに思う私でした。
23歳 男性のストーリー
母方の祖父は、何をするにも形から入るタイプであった。おいしいコーヒーの飲みたいと思ったら、数万円するコーヒーミルをすぐに購入し、聞いたことないような国の豆を買ってくる。またある日は、靴磨きをしたいということでホームセンターに車を走らせ、1万円くらいするセットを購入、帰ったらすぐに取り掛かる、という具合に、新しいことに挑戦するたびに高いものから入る。
ある日なぜ初心者なのに高いものを買うのか、その理由を尋ねた。すると、「高いものは長持ちするもの。最初から安いものでは身が入らないし、何より買って満足したら二度と触らないだろう。高いものを買って、初めて人は長く楽しめるものだ」、と言った。
この言葉に感銘を受け、私もいう通りに高いものを購入してから物事を始めるようになった。とはいえ、私は祖父に似て飽き性だったため、浪費癖ばかりがついてしまった。
41歳 女性のストーリー
母方の祖父母は遠方に住んでいたので、ごくたまにしか会えませんでした。
祖父は若い頃はハードボイルド系で、仕事人間だったそうです。
私は仕事をかなり昔に引退した、年老いた祖父しか知らず、
その祖父は口下手、というか、いわゆるコミュ障で、
娘、息子、加えて、私含む孫達とあまり会話がはずむタイプではありませんでした。
食べ物の好き嫌いやこだわりも激しく、頑固で空気を読むとかはしない人でした。
だからあまり会話をした記憶や会話の内容の記憶はあまりありません。
思い出すのは、リビングで一人座って、好きな野球などのスポーツやニュースを観る姿です。
でも別れ際には、名残惜しそうの握手をしていました。
あまり多くなかった、会う機会の中で、印象深い思い出です。
41歳 女性のストーリー
私は、中学生の時に側彎症になり成人までの治療が必要と判断されました。月に一回受診があったのですが、母は拒否的で一緒に着いてきてくれなかってのですが、祖母は必ず着いてきてくれて、医師の話もしっかり聞いてくれました。
また、私が治療で辛い思いをしていてら長い時間がかかってもずっと話を聞いてくれて、一緒に泣いてくれることもありました。私の体の事でいじめに合ったときも学校に行って医師と話をして状況を話してくれて、いじめが起こることがおかしいことを伝えてくれました。
治療上、食事が取れないことも度々ありましたが、食べやすい食事を作ってくれて栄養バランスが崩れないようにかんがえてくれていました。お陰で痩せ細る事なく成長することが出来ました。
祖母に大感謝しています。
27歳 男性のストーリー
母方おじいちゃん
幼少期、私に木工作業を教えてくれました。トンカチやクギ、ノコギリを使った作業はとても楽しかったのを覚えています。ものづくりってたのしい!と思い始めたきっかけとなりました。

母方おばあちゃん
優しい。とにかく色んなことに対して優しかったです。動物園に私を連れて行ってくれました。一緒に公園に行ってくれたり、私に料理を教えてくれたりしました。両親共働きだったので、保育園への送り迎えなど、よくおばあちゃんが私の面倒をみてくれていました。おばあちゃんの家にもよく泊まりに行っていました。

父方おじいちゃん
横笛を教えてくれました。すげー難しくてすぐ断念したけど。お米や野菜作るのが上手で、家に送ってくれていました。ときどきあったときにお小遣いをくれる人、という印象でした。

父方おばあちゃん
高校生の気難しい私に優しく接してくれました。
32歳 女性のストーリー
小学生の頃、車で1時間半くらい離れた祖父母の家に泊まりに行くのが夏休みの慣習でした。
祖父母の家の近くに住む従姉妹の姉妹と私の妹の4人で、毎年遊んでいました。おばあちゃんの作ってくれるクリームシチュー(夏なのに)を食べて、おじいちゃんのかくあぐらの上に座って、夜にはキャーキャー言いながら手持ち花火をする。
そして寝る時はなかなか寝つけず、従姉妹とずっと話をして、先に寝てしまった従姉妹をべそをかきつつ起こそうとしたり。でも気づいたら自分も寝ていたり。そんな夏休みでした。
祖父母には孫が大勢いるので、わたしもその中の1人でしたが、みんなに平等に可愛がってくれた祖父と祖母。成長と共にお泊まり会はなくなってしまいましたが、あの夏休みのことを思い出すと胸がじんわり温かくなります。
50歳 女性のストーリー
私が4歳の時の話です。
当時、私の家は北海道のとある農業高校に程近いところにあり、父が私を連れて農業高校の広大な敷地の中を散歩に出かけることもしばしばでした。
農業高校にはシクラメンやベゴニアなどの鉢花を栽培する温室があるのですが、父は温室の管理室にいる職員さんと親しくしており、
散歩の途中で管理室に寄りしばらく立ち話をしてから温室をひとまわりして帰ったものでした。
あるとき、地元のテレビ番組でその温室が紹介されたのを見て、子供心に「テレビでやるなんて、すごいところなんだ!」と考えました。

それからしばらくった頃に、東京に住む祖父が泊りがけに遊びにきたときに、
私は「おじいちゃん、ゆうめいなところにつれてってあげるね!」と祖父の手を引き、喜び勇んでいっぱい歩いて件の温室へ。
職員さんは父を伴わずやってきた私と初対面の祖父に驚きつつも、祖父といろいろ話をしてくださり、私も祖父と一緒にきれいな花をたくさん見て楽しい時間を過ごしました。
…家に戻ると、「どこへ行ってたの?!」と怒る母。
それもそのはず、家から温室までは道のりにして800mはある。
大人の足なら15分もかからないでしょうが、あれこれ興味を惹かれがちな4歳児の私と、70代後半の祖父の散歩。
朝食を食べてから出かけたのに、帰宅したのは昼食の時間になっていましたから、往復で1時間半はかかっていたはず。
「庭で遊んでいるか、散歩に出かけてもせいぜいご近所を回ってくるぐらいだろう」と思っていたであろう母が心配するのも当然ですね。
…しかし、祖父と私から事情ををきいた母は困惑しつつも大笑い。
夕方に帰宅した父は「おじいちゃんは足が痛いんだから、あんまり遠くへ連れてっちゃダメ」と。
祖父からは頭をなでられ「よく歩いたね」と褒められました。
(考えてみれば、いつも両親と出かけるときはすぐに歩きつかれて抱っこしてもらっていた私が、祖父と二人で往復歩きとおしたわけですから…)

東京に戻った祖父はその後脳梗塞を患い、私の家に来ても一緒に散歩に出かけることはなく家の中で過ごすだけになりました。
私が11歳の時に祖父は亡くなりましたが、葬儀に来た親戚みんなが4歳の頃の私と祖父の散歩の話を知っていて
「本当に○○(私)のこと、かわいがっていたものね」と言ってくれました。
祖父にとって私は一番年下の孫であり、未熟児で生まれたために無事に育つのか心配していたらしいこと、
あの散歩で私が元気いっぱいに成長していることを心から喜び、親戚に自慢げに話していたらしいと知ったのは、さらに何年か経ってからのことでした。

祖父と一緒に出かけたあの散歩は、祖父との一番の思い出です。
27歳 男性のストーリー
映画館に小さい頃によく行ったことが印象的でした。内容はゴジラやドラえもん、ポケモンの映画を見に行ったことです。いつも一緒に行くのはおじいちゃんでした。それと映画に行くたびに楽しみにしてましたが、時々びっくりして話の内容が分からなくて楽しめないこともありました。大きくなるたびにおじいちゃんも年もとって映画に行くのは減ってしまい、自分が見たい映画がだんだんと楽しめなくなってしまい、挙句の果てには、「大きくなったんだからもう映画行くのはやめなさい」と言われてしまいました。今現在でも映画を見に行くのはできませんが、よく考えると、今となっては新聞を見ると、テレビで遅れて放送するのがあるのでそれを楽しみにしています。
57歳 男性のストーリー
小学校の頃祖父母は母の一番下の弟(男一人なので長男)と暮らしていた。
母の実家に正月前に帰省した時、正月の餅つきをすることになり、祖母が臼の餅をひっくり返す係をして、叔父が杵を持ち搗き始めた。沢山の餅を、何度かに分けて搗いていた。
「ぺったん、ぺったん」と小気味よくついていたのだが、突然、「ゴン!」っと音がして、叔父の「えらいことしてしてしもた~!」という悲鳴のような声を聞いて、周りの者が臼の所へ行くと、臼の横で、杵をほりだしてオロオロしている叔父と、頭を押さえて倒れている祖母がいた。
 救急車が来るまでの間に、叔父に話を聞いたら「おかんが搗いてる臼に頭を近づけてきたんで、よけられんかった」と真っ青な顔で説明していた。
 倒れていた祖母も、しばらくしたら、痛みが少しマシになったのか「ワシが、つい、もう一回餅を回そうと、杵が降りて来るのに手を出してしもたんや」と息子をかばっていた。
 結局は、祖母は骨が丈夫だったのか、おおきなたんこぶをこしらえて、脳震盪を起こしただけで済んだそうだ。でも、ひと月以上は入院したのだが、無事、退院してきて、それから毎年母の実家に行くとその話が出た。
 その祖母は、その後、道を歩いていて車にはねられ、数ヶ月また入院したりしたが、祖父よりも長生きをして、90才をいくつか超えるまで長生きした。恐るべし明治生まれ!
33歳 女性のストーリー
私が小学生の頃、夏休みの八月、丸々一月ほど、祖父母の家で過ごしていました。
夏休みといえば大量の宿題。例に漏れず私の小学校もこれでもかという量の宿題を出してきました。しかし意地でそれら全てを7月中に終わらせて、気持ち晴れやかにいつも祖父母の家に遊びに向かっていました。
ですがひとつだけ、決まって祖父母の家で行う宿題がありました。自由工作です。
何を作っていくかは自由のこの宿題を毎年祖父母と一緒に行っていたのです。川で拾った流木でモビールを作ったり、着物の切れ端でお手玉を作ったり、畑で見つけた虫たちを標本にしたりと、毎年違った作品を、笑って楽しく作っていました。
祖父はもうこの世を去りましたが、私の記憶の中では、当時のあの、優しい笑みの祖父が今もいます。
57歳 男性のストーリー
昔の家は、トイレは外にあった。肥溜めになっていて、田んぼや畑に撒いていたのだ。
母の実家もそんな昔の家だった。帰省して夜寝る前に、トイレに行くのに、親に付いてきてもらわないと怖くて行けなかった。
 昼間によく見てみれば、直径1メートル程の穴の上に、穴を覆うように木製の小屋があり、地面から数十センチの高さに床になっていて、地面に台が置いてあり床の高さから木の扉がある。扉を開けると床の真ん中に楕円形の穴がある。そこが女子便所。三方が板張りの壁で、残りは扉という作りだ。
 また、その小屋の側面(台のない所)に一部分だけ壁の板が床の高さから地面まで貼っていない所があり、肥溜めが見えている。肥溜めに向って立って用を足すところががあり、それが男子便所だ。一応地面から衝立があり、サイドの目隠しになっていた。
 その便所小屋が、母屋の横に建っていて、雨降りでも軒先からは入れるような作りになっていた。
 ある年の夏休みに帰省した時、用を足そうと男子便所に近づくと、祖母が中腰になってそこにいた。普通は、肥溜めに向けて立って用を足すようになっているのだが、祖母は反対向きで、肥溜めの方にお尻を突き出していた。よく見ると、履いているモンペ(ズボン)を膝まで降ろしている。
「おばあちゃん、なにしてるん?」と私が聞くと、祖母は、「台を上がるんが邪魔くさいからここで(用を)してんねん」とのこと。
 生まれて初めて、女の人の立ちションベンを見た瞬間だった。小学中学年ぐらいの時の事だった。
27歳 女性のストーリー
小さい頃、両親が忙しく祖父母の家によく預けられたので祖父母との思い出がたくさんあります。
可愛がってくれますが、時々叱られることもあり可愛いだけの感情で一緒にいたわけではないので、祖父母のことを両親のように思っていた時期もありました。
祖父は寡黙であまり怒らない人ですが、時々怒るときには迫力がありましたが普段はとても可愛がってくれました。
私が小学校低学年の時には夜遅くにお腹が空いたかを尋ねられ、お腹が空いたことを伝えると近所のラーメン屋さんへ祖母に内緒で連れて行ってくれたのがとても思い出に残っており、そのラーメン屋さんの前を通るととても懐かしい気持ちになります。
祖母とはよく喧嘩をしました。怒りに任せて蹴ると祖母も蹴り返してきたときの衝撃は未だに忘れられません。
54歳 男性のストーリー
じいちゃんは、幼稚園に入園する前の年になくなりました。遠い昔の話なので、詳しくは覚えていません。ただ、じいちゃんが優しくしてくれたことがなんなのかはわからないのですがで、とても居心地の良い雰囲気の中で、過ごしてきたことだけは、記憶?として、体に染みついているように思います。そんなぼんやりとした記憶しか無いじいちゃんですが、唯一、はっきりと記憶に残って残っていることがあります。それは、ある夏の晩、じいちゃんが太い声で、ほーほー、ほーたるこーい、と歌いながら手をつないで、田んぼ道を歩いていたことです。そして、おもむろに手拭いを取り出し、広げていたと思ったら、パタンと閉じました。閉じた手拭いを私の目の前に持ってきて、恐る恐る開きました。そうしたら、ほのかに光る蛍が目の前に現れました。宝石のように綺麗だったなという印象が今も残っています。何回かじいちゃんは暗闇の中でこのことを繰り返しました。ここでじいちゃんとの記憶は終わりです。ただ、蛍の歌だけは今でも頭の中に残り、もしかしたら、ほーほー、ほーたるこーい、の歌を人生初に覚えたのがじいちゃんの歌を聞いたからだとおもいます。
43歳 女性のストーリー
私は祖父母と暮らしていたのでおじいちゃんおばあちゃんが大好きでした。
両親は家業が忙しく私達姉妹の世話を祖父母がしてくれました。
特に祖父は孫の私をとてもかわいがってくれて
毎日「散歩へ行こう」と連れ出しては近所の駄菓子屋さんへ通いました。

陶芸家だった祖父は粘土を捏ねては私が好きな動物の置物を作り喜ばせてくれました。
そして秋には近くの森へ行きドングリを拾ってやじろべえや駒を作ってくれました。
私は祖父の作ってくれた素朴なおもちゃが大好きでした。

そんな祖父の影響を受けて私もモノづくりが大好きになり美術系の短大へ進学し一時は陶芸家として自分の作品を発表していました。
しかしここ10年は父の介護に追われ粘土に触っていません。
いつまでこの介護生活が続くのだろうと時々不安になるけれど
祖父が私に惜しみなく注いでくれた愛情とモノづくりを好きになった気持ちを支えに毎日を過ごしています。
36歳 女性のストーリー
生まれたときから、父方の今は亡き祖父母と同居していました。両親、姉、私の核家族が、父方の祖父母宅に身を寄せた形です。保育園は年少クラスから通い始めたので、それまでは祖母に面倒を見てもらっていました。
絵を描いたり、カルタもどきをしたり、田舎なので畑仕事の邪魔をしたり、ご飯を食べたり、おやつに祖母の土の匂いが残る手で握ってくれた塩おむすびを食べたり。楽しかった記憶があります。また、祖父には全く遊んでもらった記憶はありませんが、畑仕事の邪魔をしたり、病院に連れて行ってもらったり、話を聞いてもらった記憶があります。とても愛されていたのだと思います。
しかし、その後に、結婚して家を出た父の姉の子ども(私にとって従妹)の方が色々と愛されていたことが、祖父が亡くなった後に出てきた日記でわかりました。お小遣いの額が違ったり、ナチュラルに従妹アゲされていたり。それほど愛されていなかった事実があっても、愛された記憶が消せず、悔しいような寂しいような様々な感情が同居しています。死んだ人の日記は見るもんじゃないですね。
36歳 女性のストーリー
生まれたときから、父方の今は亡き祖父母と同居していました。両親、姉、私の核家族が、父方の祖父母宅に身を寄せた形です。保育園は年少クラスから通い始めたので、それまでは祖母に面倒を見てもらっていました。
絵を描いたり、カルタもどきをしたり、田舎なので畑仕事の邪魔をしたり、ご飯を食べたり、おやつに祖母の土の匂いが残る手で握ってくれた塩おむすびを食べたり。楽しかった記憶があります。また、祖父には全く遊んでもらった記憶はありませんが、畑仕事の邪魔をしたり、病院に連れて行ってもらったり、話を聞いてもらった記憶があります。とても愛されていたのだと思います。
しかし、その後に、結婚して家を出た父の姉の子ども(私にとって従妹)の方が色々と愛されていたことが、祖父が亡くなった後に出てきた日記でわかりました。お小遣いの額が違ったり、ナチュラルに従妹アゲされていたり。それほど愛されていなかった事実があっても、愛された記憶が消せず、悔しいような寂しいような様々な感情が同居しています。死んだ人の日記は見るもんじゃないですね。
23歳 女性のストーリー
おじいちゃんとおばあちゃんとの思い出は私が小さい時は、両親が共働きだったのでいつもおじいちゃん、おばあちゃんに面倒を見てもらっていました。
2人ともとても優しいので、私は大好きです。
小学生の時はデパートや動物園、バーベキュー、ボウリングなどたくさんの場所に連れて行って貰いました。中学生になると、休みの日にお買い物やおばあちゃんの家に遊びに行き家族皆んなで美味しいご飯を食べたりしました。旅行には半年に一回連れて行ってもらって、おじいちゃん、おばあちゃんには今まで色んな事で助けて貰いました。
成人して働き出した今、会うのは一年に一度になってしまい昔の事を思い出して悲しくなります。
これからは私が恩返しする番だと思います。
35歳 女性のストーリー
おばあちゃんは破天荒なひとだった。
私が物心ついたころから、おばあちゃんはおじさんと暮らしており、私はその人がおじいちゃんだと思っていたが、どうやら違ったらしい。籍もいれていなかった。
本当のおじいちゃんも、籍を入れていなかったそうで、おばあちゃんは未婚の母である。
何故籍を入れていないのかはわからない。
また、おばあちゃんは人の名前をよばない。長男のことは息子とよび、長女のことは女の子とよんでいた。ちなみに私のことは炊事大臣とよんでいた。一度も名前をよばれたことはない。
一度家族とおばあちゃんで旅行にいったことがある。和歌山にあるアドベンチャーワールドで赤ちゃんの虎と写真をとった。そこそこ大きな虎だった。
そのとき、係の人に虎に触れてはいけないと言われたのに、おばあちゃんは「これでお肉を買いなさい」と、虎にお金を渡そうとして、めちゃくちゃ怒られていた。
なんて破天荒な人だと思った。
37歳 女性のストーリー
わたしのじいちゃん、ばあちゃんは気づいた時にはもうじいちゃんばあちゃんでした。
というのも父が生まれたのがじいちゃんが50歳のときで、ばあちゃんはじいちゃんの15歳年下でした。
じいちゃんと言えば焼酎が好きで自転車乗っててわかばを吸ってたというイメージ。戦争も歳が行き過ぎて行かなかったらしく、原爆が投下される数日前まで長崎の工場に居たらしいです。
ばあちゃんは本当性格が悪かったです。合わなかったかな?思い通りになるまで言い続ける。しつこい、言うことを聞かないとなかなかクセの強いばあちゃんでした。
そんな性格が合わなかった祖母が亡くなる数ヶ月前にわたしも子供を出産し、ホームで寝たきりのばあちゃんに子供を会わせる事が出来ました。
たまたまなのか、起きてるか寝てるかわからない状態ですが、わたしの子供って教えたら目が見開きました。それがばあちゃんとの最後の思い出です。
21歳 男性のストーリー
小学生の頃はまだ生きていたのでよく遊んでもらいました。特に将棋を何時間も教えてもらいました。一度も勝てなかったですが楽しかったです。また、旅行にも何回か連れて行ってもらい、乗馬などをさせてもらったのを覚えています。正月もお年玉をいっぱいもらえるのでうれしかったです。そのお金を使って、親にたしか熱海の旅行券を買ってもらっておじいちゃんとおばあちゃんにあげました。とても喜んでくれたのを覚えています。結局自分も行くことになっていっぱい遊んでもらったのを覚えています。中学校の途中でおじいちゃんがなくなったので、あの時一緒に旅行に行けてよかったなと思っています。身内で亡くなったのが初めてでしたので、普段の葬式は泣かないのですが、ものすごく泣いていました。
25歳 女性のストーリー
昨年の夏、初めてザリガニ釣りをする息子を見て、ふと子供の頃の自分を思い出しました。
自分もおじいちゃんとおばあちゃんとよくザリガニ釣りをしていました。おじいちゃんに新聞紙を丸めて竿を作ってもらい、おばあちゃんに餌となる竹輪や小魚をもらっていました。
私が初めて大きなアメリカザリガニを釣って家に持ち帰ったことがありました。私は嬉しくておじいちゃんとおばあちゃんに見せて、世話をする気満々でした。
次の日、アメリカザリガニに餌をあげに行くと、なんとアメリカザリガニの象徴ともいえるツメが無くなっていたのです。この事をおばあちゃんに話すと、私が大きなツメで挟まれて怪我をしないようにツメをとったとの事でした。
あまりにショックな出来事でしたが、おばあちゃんに悪気はなく私のためを思ってしてくれた事だったので、おばあちゃんを怒ることはできませんでした。
もう今の時代ではありえない事ですが、念のため息子のザリガニに何もしないようにとおばあちゃんに伝えてあります。
27歳 女性のストーリー
今は認知症のおじいちゃんと、亡きおばあちゃんとの
思い出があります。
1度だけ、ゲームセンターに連れて行ってもらったときに
プリクラを3人で撮りました。
最初で最後となってしまいましたが、いい思い出になりましたし、
おじいちゃん、おばあちゃんも
いやだと言いつつ、笑顔で写ってくれて、対応してくれて
撮らせてくれたので
嬉しかったのを今でも覚えています。
そのプリクラはいまはもう、手元にありませんが
今でも、鮮明に覚えてます。
最後におじいちゃんに
あまり遊んでないで、勉強しないとね(笑
と言われ、そのあとは勉学に励みました。
無理矢理にもかかわらず、いやと言わず付き合ってくれて、
帰りにラーメンをおごってくれた
そんなおじいちゃん、おばあちゃんが
私は大好きです。
27歳 女性のストーリー
私が小学生の時、夏休みには必ず祖父母の家へ約1か月長期滞在していました。優しい祖父母が大好きで、実家へ帰る日は泣きながら帰りたくないと言ったこともあります。特によく思い出すのは祖母のことです。祖母はとにかくいたずらが大好きでした。例えばお茶にわさびを混ぜたり、祖父が毎日読んでいる本のしおりを違うページに変えたりとやっていることは子供みたいなことでした。祖父も毎回いたずらされているので、警戒すれば良いのに毎回騙されていました。騙された姿を見て祖母が楽しそうに笑うところを見るのが好きでした。毎日どんないたずらをしようか祖母と考えることが本当に楽しかったです。祖母は数年前に亡くなりましたが、今でも夏がくるとこのことをよく思い出します。
32歳 女性のストーリー
私がまだ保育園に通っていた時、ピアノ教室に通っていました。送り迎えは、おじいちゃんの車でやってもらっていました。ピアノ教室と言っても、まだ年齢的に幼かったからか、先生が弾いたピアノに合わせて教室のみんなで歌ったり活動したりするといったものでした。しかし、引っ込み思案だった私は、みんなと一緒に上手に歌うことが出来ませんでした。そのため、ピアノ教室に通うのがなんとなく憂鬱に感じでいました。
しかし、送り迎えの車の中でおじいちゃんとおしゃべりをするのは大好きでした。信号機の話や、歩行者信号から流れるメロディの話など、色々な話を教えてくれました。大好きなおじいちゃんの車の助手席で、いつも楽しい話が聞けたので、最後まで辞めることなくピアノ教室に通い続けられたと思います。
20歳 女性のストーリー
私は、昔からおじいちゃん、おばあちゃんっ子だったので、おじいちゃんやおばあちゃんと過ごすことが多かったです。おばあちゃんには、よくバスで色々なところに連れて行ってもらったり、近所をグルグルと散歩したり、ジュースを買ってもらったり、沢山甘やかしてもらって過ごしました。おばあちゃんと一緒にお風呂に入ったり、おばあちゃんと一緒に寝たり、おばあちゃんには沢山お世話してもらいました。
おじいちゃんには、学校への送り迎えや、習い事への送り迎え、遊びに行く時にお小遣いを貰ったり、小さい頃は、1歳で弟ができたので、おじいちゃんにおんぶされて散歩に行ったり、おじいちゃんとお出かけをすることが多かったです。大学生になってからも、おばあちゃんは小さい頃に他界したけれど、おじいちゃんには色々お世話になっていて、今でも顔を見せに帰ったらニコニコして出迎えてくれます。
21歳 女性のストーリー
私は小学五年生の時、家族でカヌー体験ができるコテージに泊まりに行きました。
そこで、私は祖父と二人乗りのカヌーを借りてカヌー体験をしに行きました。
私が前に座り、祖父は後ろに座っていました。
最初は二人で楽しく漕いでいたのですが、途中から私一人で漕いでいました。
私は水面から生えてる茂みにカヌーでぶつかっていく楽しみを覚え、ひたすら茂みにぶつかっていっていました。
そして、とある茂みにぶつかりに行ったとき、茂みの隙間にちょうどよくカヌーが進んでいき、私と祖父はバランスを崩し、カヌーから落ちてしまいました。
偶然祖父は水泳をずっとやっていたため、私を背中に乗せ、平泳ぎで近くのカヌーをしている人のところまで泳いで助けを求めてくれました。
祖父は私を励ますために泳いでる間にもずっと歌ってくれました。
今思うと、祖父に対して申し訳ない思いでいっぱいですが、祖父と唯一近づけたいい思い出です。
32歳 女性のストーリー
大好きなおばあちゃんはダンスが大好き。
自分が子供の時に親からダメと言われてできなかったダンスをおばあちゃんになってから始めました。そのダンスもしかも社交ダンス。昔は男の人と女の人が踊ること自体あまりなかったのですがおばあちゃんは社交ダンスをチョイスしました。毎日のようにダンスの練習へ行き、ダンスのない日もダンス仲間と会ってはおしゃべり。そんな多忙な中でも私への毎月のお小遣いは欠かさず渡してくれました。今思えば年金生活で大変だったはずなのに、毎月のお小遣いに加え、ひな祭りやクリスマスには必ずケーキ代もくれました。そしてその時はおばあちゃんの手作りのご飯でおもてなし。それが全然おしくないんです(笑)おばあちゃんは昔から料理が苦手。一度好きって伝えた「なす」。
そしたら毎月なす料理ばかり・・・(笑)。
おばあちゃんでご飯作るの上手なんじゃないの?って思いながら、まずいとは言えずいつも完食していました。月に一度会うにも多忙なおばあちゃんと当時高校生の私はなかなか時間が合わず、毎回日程調整をしていました。思春期もなぜかおばあちゃんとは自然に話せた私。
そんなおばあちゃんも最後のお小遣いをもらってすぐに交通事故で帰らぬ人になってしまい今年で14年。なすを見ると思い出しますし、おばあちゃんに話したいことがたくさん。会いたいな。
34歳 女性のストーリー
父方の祖母のお話です。私が小学校2年生のとき、父方の祖母と近所に出来たばかりのマクドナルドへ、お昼ご飯を買いに行きました。私はハッピーセットのような子供向けのセットを頼み、祖母は「モスバーガー下さい」と注文していました。店員さんは困った顔で「申し訳ございませんがお取り扱いがなくて…」と困った顔で対応されてました。その時の店員さんごめんなさい。
もう一つ、歌が好きな母方の祖母のお話。私が友達とカラオケによく行っていた頃、母方の祖母は老人施設へ慰問のため歌を披露しに行っていたので、一緒にカラオケへ行こうよと誘ったところ、「生バンドじゃないと歌いたくないの」と小粋な回答が返ってきました。そりゃカラオケの生音風よりも、生のバンドが良いですよね。
23歳 女性のストーリー
本当のおばあちゃんじゃないけれど

私が小学校4年生の時、父が商売に失敗し借金背負ってしまうことになり家庭が滅茶苦茶になっていた時期がある。

借金は相当あったらしく電気やガス、水道が止まってしまうことだってあった。
その日の食事もちゃんと取れるかもわからない状況、しかも父と母は毎日喧嘩をしていたので家の雰囲気はいつも負のオーラで満ちていた。

そんな家に居たくなかったので学校が終わっても家に帰らず、町に出てフラフラしていた。
ある日どうしてもお腹がすいてしまい、万引きをしてしまった。
おばあちゃんが1人でやっている小さな駄菓子屋さんで
最初は罪悪感で心が痛かったが、何回かしているうちにすっかり慣れてしまった。
何度も何度も学校帰りに行っては万引きをしていた。

そんなある日おばあちゃんが突然「ごめんね」と言ってきた
私はその日も万引きをするつもりだったので心臓が飛び出るくらいビックリした

おばあちゃんが「身体の調子が悪いから今月で店をやめるんよ。じゃけぇもうお菓子をあげることができんのんよ」

と、私に言ってきた。おばあちゃんは私が万引きしていることを知っていた。
知っていたにも関わらず私を咎めず、更に心配までしてくれていた。

私はそれ以降万引きは1度もしていない。
63歳 男性のストーリー
 私の祖父は明治時代の生まれでした。小さい時の思いでは、いくつかありますが最も大きく感謝していることは、自転車に乗れるように訓練をしてくれたことです。自転車の後ろをもって乗れるまで支えてくれました。後ろに祖父がおらず、一人で乗れていた時の感動は今も記憶しています。
 また、学生になってからは帰省するたびに畑の耕し方を教えてくれました。雑草を埋めながら耕していく「埋め打ち」というやり方を教えてくれてうれしかったです。
 また、高齢になっても家計を支えるために夜の警備の仕事に出かけていました。雨の日の風の強い日も自転車で5~6キロメートル離れた職場に出かけていく姿から、家族のために頑張る姿や自分の責任を果たすことの大切さを教えてもらった気がしています。
36歳 女性のストーリー
おじいちゃんとの思い出は、お祭りです。
近くのお祭りにおじいちゃんと毎年、行きました。おじいちゃんは、お祭り大好き人間でした。お祭り大好き人間と言っても積極的に歌を歌ったり、お神輿を担いだりするわけではありません。見るのが好きなのです。
出店の準備が始まる16時くらいにまず、一人で、一度、見に行きます。また、暗くなる18時くらいには、私と一緒にお祭りを見に行きます。19時くらいになると、母と私と見に行きます。20時くらいになると、1人で舞台の演歌を聞きに行きます。21時、お祭りは終了ですが、終了した後も1人で見に行きます。
そんなとくに何も買わずにただただ見るだけのおじいちゃんですが、おじいちゃんとただただ歩くだけのお祭りが当時の私には楽しみでした。私も楽しかったです。そして、今、何度もお祭りを見に行ってしまう自分がいます。その度におじいちゃんを思い出します。
36歳 女性のストーリー
私の両親は共働きでした。家では一緒に暮らしていた祖母が待っていてくれました。いつも「ただいま」と玄関を開けると、「おかえり」と祖母が出迎えてくれていました。
幼いころは母が家に居てくれ、買い物やお菓子作りのできるの友人が羨ましく思うこともありました。いろいろ構ってくる祖母が嫌な時もありました。
でも誰も居ない家に帰ることがあったとき祖母の「おかえり」がない寂しさに気づき、祖母の存在の大きさを感じました。誰かが居てくれるという安心感も知りました。
幼いころ母が家に居なくても、寂しい思いをしなかったのは祖母が家に居てくれたからだと大人になってから気づきました。”親孝行できる時には親が居ない”とは聞くけれど、親孝行の前に祖母に何かしてあげたかったと後悔しました。私も親になったら「ただいま」の声に「おかえり」と祖母が言ってくれたように安心して帰ってこれる家にしたいです。
60歳 男性のストーリー
私の祖父と祖母の思い出を書きます。
祖父祖母とは同居していました。
父は長男であり、家業を継ぐのと、自分で大きくした事業をやっていました。
つまり、先祖代々の土地に住んでいて、父母祖、祖父母、私の二人の姉妹と同居でした。
私の知る祖父は、仕事は引退しており、父に全面的に譲渡、一切事業に口出しはしません。
美術鑑賞の高尚な手記でした。具体的に言うと、日本画が中心で、画家や画商とも交際が
深かったようです。
掛け軸に仕立てた日本画を床の間に飾って楽しんでいました。
書け実の管理も趣味ジョンに楽しみの一つの様子。
焼酎でなく、日本酒を毎晩おみながら、鑑賞していました。
祖母も、勉強家だったようです。
茶の湯の先生をしていて、若い情勢尾おデッサンも複数いました。
また、和歌や俳句も勉強していました。





36歳 女性のストーリー
 私は甘い卵焼きが好きです。甘い卵焼きは祖母が祖父のために、毎朝用意していたものです。
 私の両親は共働きだったので、私の寝ているうちに仕事に行くこともありました。私の記憶では祖父母と一緒に朝食を食べてることのほうが多かったように感じます。
 幼かった私は祖父の膝に座り、祖母が作った甘い卵焼きを食べるのが私の好きな時間だったようです。祖父の膝に座ることが好きだった記憶はうっすらと覚えていました。いつもはしかめっ面だった祖父がこのときは、やさしい顔になっていたとは知らず、大人になってから親戚に話の中で聞きました。
「大きくなったら甘い卵焼き作れるようになるから、食べてね」と言っていた幼い私の夢は叶わなかったですが、今でも甘い卵焼きを食べると祖父との思い出がよみがえります。
18歳 女性のストーリー
私のおじいちゃんは、散歩が大好きな人でした。おじいちゃんが私の家のインターホンを鳴らす時は、大体「一緒に散歩に行こう」というお誘いでした。
いつも散歩コースは決まっていて、私の通っていた幼稚園や、近所のお寺、スーパー、お花屋さんなどの前の道をいつも通るのです。おじいちゃんは無口なので、基本おじいちゃんも私も何もしゃべらずにただただ歩くのですが、たまに「学校はどうだ」とか「最近楽しいことはあったか」とか聞いてくれることがあって、そうやってのんびりと過ごす時間が私の楽しみでした。
そして散歩の帰りには必ずスーパーに寄って、パンを1つ買ってくれました。おじいちゃんにもらうパンはいつも美味しくて、「おじいちゃんのパンは世界一だ!」なんて思っていました。
今ではもうとうの昔の話で、おじいちゃんも既に亡くなっていますが、今なら、もっとたくさん話したり、パンも半分こしたり、おじいちゃんの話も聞いたりできるのに、と思います。
もっと長生きして欲しかったです。また、大好きなおじいちゃんに会いたいです。
53歳 男性のストーリー
うちの爺さんは元気だった。足が丈夫だったので、よく山に出かけてキノコを採っていた記憶がある。爺さんの家の裏山でキノコが採れた。今から考えると、熊が出て怖いような山だったけど、その当時は熊の心配をしたことが無い。狸や狐が居ると聞いているけど、爺さんのところで見たのはキツネだけだ。熊は一度も見たことがない。それで深い山奥までキノコ採りに出かけると、黄色いのやいろんなキノコを採ってきた。それを瓶に詰めたのを美味しく食べた記憶がある。塩漬けだったからしょっぱかったけど。美味しいキノコだった。キノコ採りについて行くと結構疲れた。歩いてもあまり採れなかったから、一瓶貯めるだけでかなり歩いたんだ。そういえば、よく歩く爺さんだった。
39歳 女性のストーリー
父方のおばあちゃんとの思い出です。
戦争の体験について聞いたことがありました。
確か、小学校で出された課題だったと思います。
父の実家は、家の周りを田んぼが囲んでいるところです。
とても田舎です。
おばあちゃんが、家の近くにある畑で仕事をしてた時に、空襲警報が鳴り、急いで家の中に入り、荷物を持って、防空壕へ逃げようとしました。玄関を出たら、足元に爆弾が落ちてきて、もうダメだと思ったそうです。
その爆弾は、不発弾で命拾いしたと話してくれました。戦争を経験していたからか、食糧難の時期を経験していたからか、畑の仕事は毎日欠かさずしていました。
そんな人でしたが、一昨年92歳で亡くなりました。大往生でした。
今、戦争体験者がご高齢で少なくなっています。とても貴重な話しを聞いたと今では思います。
39歳 男性のストーリー
すすきのは「ラーメン横丁」にあるラーメン屋の話しです。
醤油ラーメンがとても美味しくずっと通い続けていたのですが、店主が「お代はいらないから、あるラーメンを食べてみてほしい」と言われました。
自信があるとの事で、そのラーメンのスープを一口。「濃い・・・」
そして麺はかたく美味しいとはとても思えなかった。「このラーメンは口に合わないですわと言ってしまった。

次の日になり、昨日のラーメンは何だったんだろうと思い仕事をしていました。
また普通の醤油ラーメンを食べにお見せに行きましたが、急に昨日のラーメンを食べたくなり自分の意志で注文しました。
またスープから「・・・美味しい」麺の硬さも合っている。
なんだ、昨日と全然違う。最高のラーメンがここにあった。
店主が言うにはほぼ全員最初は美味しくないと言うが、その後は客を虜にする魔法のラーメンと自信ありげに言っていました。
その後も店に通い続けたのは言うまでもない。
38歳 女性のストーリー
祖父は75歳過ぎまで漁協で働いていました。深夜2時に起床し、朝食をとったら出勤。そこで朝の仕事をこなした後で仮眠をとり、午後の仕事をこなして夕方帰宅するというのが1日のスケジュール。
私は祖父と年に2~3回しか会わない距離だったし、遊びに行ったとしてもすれ違いが多く、ほとんど会話をすることがありませんでした。一緒に出かけたことも数えるほどで、唯一思い出に残っているのがGWに一緒に行った動物園。滅多に車で出かけない祖父が運転をし、後部座席の私と色々な話をしたのを覚えています。
祖父は仕事中に足を骨折して入院したのをきっかけに一気に体が衰弱し、入院から2ヶ月程で亡くなりました。祖父が亡くなった後、祖母がリフォーム詐欺にひっかかったり、叔父夫婦が離婚をしたりと色々身内でトラブルが発生しました。
あまり積極的に家のことに関わる祖父ではなかったし、私にとってはいてもいなくても変わらないような存在の祖父だったけど、やっぱり大黒柱だったんだなと思います。祖父が生きていた頃は、こんなトラブルはなかったと母も言っていたので。祖父があと数年生きていたら、親族の人生も変わったように思います。
35歳 女性のストーリー
私の母方の祖母は、私がまだ小さい頃に、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という国指定の難病で亡くなりました。
ALSの症状は全身の筋肉におよびます。歩行、手作業など末端の筋肉からだんだん進行し食事(嚥下)や呼吸も困難になっていきます。
そんな中、祖母は舌の筋肉が先行して衰えたため、真っ先に言葉を話せなくなりました。しかし、その他の身体機能に影響が出なかったので、在宅で暮らしていました。
ALSを発症後も脳は正常に機能するので、言葉が出なくなってからの祖母はどんなにかもどかしい思いをしただろうと思います。私は祖母がどんな声をしていたのか、思い出すことができません。
ですが祖母は、自由に動く体をすべて使って、一生懸命に私とコミュニケーションを取ろうとしてくれました。
ある日私がいたずらをして、畑の若いニンジンを抜こうとしたところ、祖母が慌ててやってきて、手で大きくバツ印を作り、困った顔で笑いました。
私はそのシーンを強烈に覚えています。祖母は本当に話ができないんだ、でも確かに私のおばあちゃんとして一緒に居てくれるんだ、と幼心に実感した体験だからです。
その後祖母の症状はあっという間に進行し、とても静かに亡くなりました。祖母と会話をした記憶がないことは、いまだに少し寂しいですが、不自由な体で一生懸命に末孫の私を愛してくれた祖母の大きな身振り手振りは、私にとって忘れがたい思い出です。
65歳 男性のストーリー
 私のおじいちゃん、おばあちゃんとの思い出は、おじいちゃんは私が生まれた時には、すでに他界していたので、祖母との思い出になります。
 私は、姉が一人おり、その弟として生まれました。その当時、祖母が私の両親と姉と私と同居していました。祖母は、私が生まれた時は、62歳ぐらいだったと思います。
 我が家にとっては、初めて男の子が生まれたことに大変喜んでくれて、私に大変愛情深く接してくれました。当時は、男は家のあととりとの意識が根強くあったと思われます。
 幼少の頃はよく祖母の部屋で一緒に寝ていたようです。私は、60歳半ばになった今でも祖母の肌の暖かさを覚えています。今から考えれば、私の母は、私の姉は4歳年上でしたから、私にも手をかける余裕がなかった訳ではないと考えますが、おばあちゃんに我が子を取られたようで寂しかったかもしれません。祖母と散歩したこと、スキーをするといえば、スキーにローソクを溶かして滑走面に塗ってくれたことなど、懐かしく思い出します。
21歳 男性のストーリー
 自分は幸せなことに父方、母方の両祖父母ともに会って話をすることができ思い出もそれなりには残っている。
 父方の祖父は小さいころに亡くしてしまったがかなり大切にしてもらいさまざまな贈り物を貰ったと聞いている。父方の祖母はいつも自分を頼りにしてくれて今でも定期的に会うようにしている。
 母方の祖父は自分の娘には厳しかったと聞いているが同時に子どもが大好きだったので遊びに行くと近所の公園へ行っては一緒に遊んでくれた。家の中でもテレビを観て一緒に笑い合ったこともあった。晩年は認知症になってしまったが自分が会いに来ると名前を思い出そうとしてくれたことは今でも覚えている。母方の祖母はいつも穏やかでニコニコしており母親が怒りだしてしまった時もよくなだめてくれていた。
57歳 男性のストーリー
私の母方の祖父は、信心深かった。顔も丸顔で何時もニコニコしていた記憶しかない。
 そんな祖父は、祖母が裁縫の縫子という仕事をしていたので、着物を他の縫子さんに届けたり、出来上がった着物を依頼主に届けたりという事をしていた。
 祖父夫婦がこの仕事を始めたのは大分と高齢になってからとのことで、祖父が着物を運ぶために自動車の免許証を取ったのも、五十才を超えてからとのことだった。
 高齢で免許を取得したせいか、運転は穏やかで、田舎だったこともあるが、一度も事故を起こしたこともなかったそうだ。
 小学生になってすぐの夏休みに、親と帰省した時に、祖父が着物を運ぶ車に乗せてもらうことになった。今までも、帰省の度に最寄り駅まで送り迎えはしてもらっていたので、親と一緒には乗ったことがあったのだが、その時は、祖父と私の二人っきりでのドライブだった。
 何時もは後ろの座席ばかりだったが、この時初めて助手席に乗せてもらって、私はとても嬉しかったのを、覚えている。
 祖父の家は、一般道までは人が通るには広いが車幅いっぱいいっぱいしかなく、昔の集落の道なので、曲がりくねっているし、角切などしていない直角に曲がる交差点などを通らなければ、出れないような所だった。
 それでも祖父は慣れているので、そろそろと通過して、一般道に出て、目的地に向けて走り出した。集落の道では、車に接近してくる家の壁にドキドキし、一般道では前面の景色に夢中になっていた。しばらくして、ふと、運転している祖父が何か言っているのに気が付いた。話しかけてくれているのに景色に夢中で気が付かなかったのかと思たが、なにかちょっと違う。言っている言葉が、幼い私に向けてではなく、独り言の様なのだ。エンジン音などで聞こえにくいが、よく耳を澄まして聞いてみると・・・
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と運転しながら祖父は言っていたのだ。
 信号で止まったら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥」。走り出したら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀」、荷物を降ろしたら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」・・・。
 帰りは「自分はこのまま、あの世に連れていかれるんじゃないか」と何か怖くなってしまった。
 後で聞いたら、「案園運転、事故除けのおまじないや」とのことだったが、ちょっとトラウマになりかけた出来事だった。
31歳 女性のストーリー
小さい頃、父方の祖父とよく近所の公園に遊びに行っていました。
祖父は公園に行くたびに、途中のコンビニでジュースを買ってくれました。
私は毎回不二家のネクターを買ってもらっていました。
今でも大好きで、自販機やスーパーで見つけては思わず買ってしまいます。
いつまでも忘れられない思い出ですし、思い出の味です。
父方の祖母は、祖父が亡くなってから一緒に住んでいました。穏やかで優しい祖母でした。
結婚式に来てほしい、と思っていましたが、残念ながら間に合わずなくなってしまい、悲しかったです。
結婚が決まり、相手のご両親への挨拶も終わったタイミングだったかと思いますが、夢に祖母が出てきて、とっても良い笑顔で何かを私に向って話しているんです。
夢の中の私はびっくりして声も出ませんでしたが、目が覚めて改めて考えると、
あぁ、結婚が決まって喜んでくれて、おめでとうって言いに出てきてくれたんだな、と思いました。
一番優しい思い出です。
61歳 男性のストーリー
おばあちゃんとの思い出は,おばあちゃんは一人暮らしをしており,ミカン畑の手入れに良く畑に行き,その合間に料理・おやつを作ってくれていました。
この季節になると,サツマイモを掘り,収穫してそれを利用して,電気釜でご飯を炊くときにサツマイモを一緒に入れて,炊くと柔らかく焼き芋とは,又違うホンワカしたおいしがありました。
今では,家庭では殆ど作らない,おやつを農作物で取れる,小豆,イチジク,柿等身近に有る物を利用して,作って貰った思い出が沢山あります。時に家庭で作るおやつの中で,昔食べた事の有るおやつを見ると,おばあちゃんが作ってくれた事を懐かしく思いだしています。
今懐かしい,おやつを家族で食べると,子供たちが,又何年後かに思い出して懐かしんでくれると思います。
家庭の味は,こうして代々続くものだともおもいました。
34歳 女性のストーリー
すでに他界しておりますが、父方の祖母との思い出です。
祖母から見たら私が初孫に当たるためか、とても可愛がってくれた記憶があります。
食べることが大好きな私。お小遣いより祖母の作る料理が何よりも楽しみでした。
兄弟が多く、食べ盛りだった私たちのために、遊びに行けばテーブルにはたくさんの料理が並び、それをみんなで楽しく食べるのが恒例でした。
山に住んでいたこともあり、季節によって菜の花やぜんまい、筍など山の幸を使った料理もたくさんありました。スーパーでそれらが売っているのを見た時、タダで手に入るものという感覚があったので驚いた笑える贅沢な記憶があります。
その中でもたくあんや桜でんぶなどを使った、具はとても素朴ですが、カラフルで可愛らしい絵柄の巻寿司が祖母の得意料理。小さい頃からそれが大好きでした。
幼いながらに、私もそんな巻寿司が作れるようになりたいなと、よく祖母に大きくなったら作り方を教えてね、と話したものです。
残念ながら教えてもらう前に他界してしまったのが残念です。
晩年は入退院を繰り返し、最後は病院で息を引き取りました。
時折お見舞いに行くと、二人で夕方の時代劇を見ていたのを思い出します。

母方の祖父母や、父方の祖父よりもずっと大好きな私の祖母の話です。
27歳 女性のストーリー
保育園に通っていたころ、シングルマザーで働きに出ていた母の代わりに、祖父と祖母が交代で徒歩20分くらいの保育園まで毎日迎えにきてくれました。たまに公園で遊んで、駅まで歩いて、バスで眠りながら帰りました。そして、近くのコンビニのような店でその日のおやつを買ってもらいました。母の分はとっておいて、祖父母と分けて楽しくその日の出来事を話しながら食べました。
保育園のことはあまり覚えていませんが、祖父母と家に帰るのは大好きで今でもよく覚えています。一緒に歌を歌ったり、ごっこ遊びをしながら帰りました。
そうやって大切にしてもらったおかけで、父親が居なくて寂しいと思うことはあまりなく、楽しく過ごすことができ感謝しています。
35歳 女性のストーリー
これは私のおじいちゃんとの思い出話です。
私が小学3、4年生の時、おじいちゃんとおばあちゃんと3人で電車に乗って街の博物館へお出掛けに行った時の話なのですが、帰りの駅のホームで電車を待っている時、ホームに沢山の鳩が群がっていました。
私は退屈な時間を鳩を追いかけて潰していました。
鳩は結構近づいても逃げる様子がないので触れるんじゃないかと試みましたがあと少しで触れそうな所で1mくらい飛んで逃げて何食わぬ顔でまたホームをうろつきました。なかなか触らないなぁとおばあちゃんに話しかけながらしばらくすると、椅子に座ってじっとしているおじいちゃんの足元に1羽の鳩が近づいてきました。すると今までじっとしていたおじいちゃんが素早い動きで鳩の両足を片手でガシッと掴んで逆さ吊りにしたのです。物凄くけたたましい音で翼をバタバタさせる鳩。あまりの短時間で起こった事をただ呆然と見ていた幼い頃の祖父との思い出でした。
43歳 女性のストーリー
自分が子どもの頃、田んぼへ行って、祖父母の手伝いをしたのことを、よく覚えています。
田植えでは、泥の中に入り、苗を植えるのですが、イモリやカエルがいて気持ちが悪いし、たまに泥にハマって足が抜けなくなってしまいました。稲刈りでは、台風で稲が倒れてしまったことがあり、機械で刈れるように、その稲を一生懸命起こす手伝いをしたこともありました。作業は大変でしたが、その分祖父母を尊敬していました。
作業の合間の休憩に、ござを敷いて、飲むお茶や、お菓子、おばあちゃんが漬けた漬物や、おばあちゃんが握ったおにぎりを食べるのがとても楽しみでした。頑張ったことと、青空の下、外で食べることもあり、格別な美味しさでした。おばあちゃんのおにぎりは、三角でなく、丸いおにぎりで、味噌がついているものが多かったのですが、それがまたとても美味しかったです。
帰った後、おじいちゃんやおばあちゃんに、頑張って手伝ってくれてありがとうね、助かったよ、と言われるのが毎回とても嬉しかった。そして、そのご褒美にお小遣いをもらえるのも嬉しかったです。亡くなってしまったおじいちゃん、そして今はなかなか田んぼへ行けなくなってしまったおばあちゃんとの、もう出来ない良い思い出です。
47歳 女性のストーリー
 私は4世代同居で育ったので家には、祖父母のほかに曽祖父母も一緒に暮らしていました。両親は仕事で忙しなく、母が夕飯を作る間は、年寄と一緒に時代劇や相撲を見ていました。私の定位置は、晩酌する曽祖父の膝の上でしたから、夕飯前で空腹な時、口を開けてねだると曽祖父はつまみの柳川鍋のドジョウやイナゴの佃煮、イカの塩辛などをポンポンくれました。今では、幼子にそんなつまみを与えるのはタブーかもしれません。私はお酒が全く飲めない下戸ですが、今でもそれらが好物であり、曽祖父との良い思い出です。
 曾祖母は学校に行く時、帰る時、どんな事をしてても必ず、玄関まで出てきてくれました。姉妹だったので声だけではどちらか分からないからということでした。
 時代的な事もあり、二人は子供を多く亡くしました。七五三を祝ってやる前に亡くなってしまう子が多かったので、ひ孫の私達姉妹は、本当に可愛がられ大事にされたと思います。
36歳 男性のストーリー
母方の祖父母は、私が初孫だったこともあり、とても可愛がってくれました。

祖父母ともに可愛がってくれましたが、特に祖父に可愛がってもらい、祖父は国鉄勤務だったこともあり、私が幼年期に鉄道が好きになると色んな場所に連れて行ってくれました。

当時、私の住んでいた地域には、先頭車両が大きくガラス張りになった展望車のようになった車両が走っており、鉄道好きの子どもにとっては、その先頭車両に乗ることは憧れの対象でしたが、特に展望席の座席数も限られており、なかなか乗るのが困難でした。

ある時、それに乗るために、ホームで早めに並んで待っていましたが、そろそろ到着時間も迫る頃には、先頭車両の展望席目当てであろう他の親子連れも数組見受けられ、争奪戦の様相を呈していました。

そんな中、いざ扉が開いた時、祖父は同行していた母に対して、温厚な祖父からは想像も出来ないくらいの大声で、『走れ!!早く席を取れ!!』と命じ、母は走り、無事展望席を確保することが出来ました。

今となっては、席を取る為に、そこまでしなくてもと思わなくもないですが、可愛がっている初孫を展望席に座らせてやりたいという祖父の愛情だったんだなと、30年以上前の出来事ですが、今でも記憶に残る、祖父との思い出です。
21歳 男性のストーリー
私のおじいちゃん、おばあちゃんは九州に住んでいます。
私は関東に住んでいるので、滅多に会いに行くことができず、夏休み等の長期休暇でしか会うことができませんでした。
おじいちゃん、おばあちゃんの家は、周りに温泉や観光地が多くあったため、おじいちゃんの車の運転でよく遊びに行きました。
食も豊富で、地元の漁港で取れた魚の刺身がとてもおいしかったです。
中でも特に思い出深いのは、私が関東に帰る前の日の夕飯で食べたすき焼きです。
全国的にも有名な地元の牛肉を使ったすき焼きは格別でした。
小さい子供のころの出来事ですが、とても思い出深いことです。
社会人となった今では、夏休みも短く、さらに会いに行きにくくなりましたが、また機会があればすき焼きをしたいと思っています、
34歳 女性のストーリー
私が生まれた時、私の両親は父方の身内とは関係がよくなかったらしく、疎遠になっていたみたいです。私が4歳ぐらいの時、祖母が危ないという連絡を受けて、私達家族全員で祖母が入院している病院にむかいました。
何年ぶりかの再会だったみたいです。
もちろん私はまだ、幼いので所々の記憶しかありませんが、幼いながら知らないおじちゃんがいたり、知らないおばーちゃんが病室で寝ているという不思議な光景だったと思います。
その知らないおばーちゃんは笑顔で小さい声で私の手を握り、お前がアヤか‥会いたかった‥とふり絞るような声で言いました。
そしてそこにいた全員が泣き崩れていました。
後から聞かされるとそれが最後の言葉だったみたいです。
45歳 女性のストーリー
私が4、5歳の頃、高熱をだして寝込んでいると、私の母から電話で聞いた祖父が、バスを3回乗り継ぎ、バナナを片手にやって来ました。それから、夜通し私の傍らにいて、寝ずの看病をしてくれました。
以前から病弱だった祖父が、杖を頼りにもう片方の手には大きなバナナを引っ提げて来たと、ことあるごとに母が話していました。
当時の我が家は、祖父母の住む父の実家から離れていたこともあり、お盆とお正月に帰省する程度でした。
父の実家に行くと、沢山の本や古い品でごった返す、祖父の部屋に籠るのが大好きでした。
優しく微笑んでいた祖父は他界しましたが、今でも時折ふと思い出すことがあります。
そんな時は、お爺ちゃんが見守ってくれてるんだなと思い、目頭が熱くなります。
現在は、私の両親も他界し、弟の家族が御先祖様の仏壇を守っています。
実家を訪れた際には、お爺ちゃんを含む沢山の御先祖様に、感謝の気持ちで手を合わせています。
ありがとうございます。
27歳 女性のストーリー
小さい頃から、大きな声を出すおじいちゃんが苦手で、よく泣いていたそうです。初孫ということで、すごくかわいがってくれたおじいちゃんは遊びに行くといつもより声のボリュームを下げて話してくれていたそうです。
農家を営んでいたので、いつも作物の収穫の時は手伝いをし、出荷先へ行ったりしていました。「仲がいいですね」と言われることに対して、すごく嬉しそうにしていたのを今でも覚えています。
私が中学、高校、大学へと上がるにつれて、おじいちゃんもだんだん体が弱ってきました。いつも軽トラを運転していたのにそれも出来なくなり、ついに病院へ入るようになりました。一向に良くなる傾向もなく、日に日に弱っていくおじいちゃん。私が大学を卒業した後に、亡くなってしまいましたが、最後に袴姿を見せれて泣いていました。思わず私ももらい泣きしてしまいました。この時に撮った写真は今でも部屋に飾っており、思い出になっています。
48歳 女性のストーリー
祖父は昔気質の人で、とにかく女性に対して差別的な人でした。奥さん(祖母)に対して、2男5女を産んだにもかかわらず『女ばかりポンポン産みやがって』と暴言を吐く始末と祖母から聞いてました。
そんな祖母は厳しい環境下で生き抜いてきた大正女で、私が3人目の子供を授かり、育児に奮闘している時期にぽつりと言った一言が、今でもっころに残っています。
『お前もこれでやっと親のありがたみがわかる。2人目までは父・母で一人ずつ、3人目から手が足りず同時にあやすことが叶わなくなる』
私は、祖母は実感のこもったつぶやきで、さり気ない教えをしてくれているなぁ、と感じました。
実際、上の子のトイレを手伝っている矢先に、下の子が泣き出したと思うと、異物を口入れていたり、鳥肌ものの体験もしながら、あの時の祖母のつぶやきを二十歳過ぎた娘息子を見るたびに思い出します。早くおばあちゃんになりたいと願って。
37歳 女性のストーリー
私が小さい時はおこづかいやお年玉はおばあちゃんがくれるもので、おじいちゃんはくれないものと思っていた。そんなおじいちゃんがある日突然孫全員に500円玉をくれた。みんなびっくりしたから、500円玉はびっくり玉と命名。私はその時の興奮を作文に書いて、それが文集に載ったのをおじいちゃんはとても喜んだなんてこともあった。それから時々得意気にとびだすびっくり玉が他の大人達にもらえる数千円よりも私たちのテンションをあげていた。
それから10年ほどたつと、おじいちゃんは末期の肺がんを患った。当時の医療では肺はお手上げ状態。後は呼吸を助けるために気管切開で管を通す手術をする事になった。それ以降はもう喋らないかもしれない。そんな手術が終わった日の夜、立ち会った父親に聞かされた話。おじいちゃんは手術室に入る前、突然父親に両替を頼んだそう。何に使うかと聞いたら『孫たちが来たらびっくり玉をやるんだ』と言ったと。もう喋れないかもしれない、最後の会話がそれだったと。結局、そのびっくひ玉をもらいに行く前におじいちゃんは死んでしまった。でも今でも落ち込んだ時は500円を眺めて、元気をもらっている。
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あらすじ
「あなたの番です」あらすじ
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