"大分" に関するエピソード

「もっとも尊敬する人」

22歳 女性のストーリー
私が最も尊敬するのは母です
では、何故母が尊敬する人なのかお話ししましょう
母は、左手が発達せず左手が無い障がい者としてここ日本九州の大分に産まれ母の家族は、母の下に年の離れた妹1人、弟1人だったそうです母は、長女であった為かたくましく気が強い女性とし成長していき小中高を無事に卒業し、彼女は介護の専門学校へと通います
そして、いずれ宮崎産まれの父親と出会いを果たし専門学校を無事に卒業し、幾年日過ぎて母は、早くにして姉を子にむかえたといいます
母は、左手が無いのにも関わらず小さい赤ちゃんを懸命に育て姉に障がいが出ないか不安はあったといいますがそんな素振りは私達には微塵も伝わってきませんでした
ここからは、私が産まれてきてそして私が覚えてる話しでのお話しでございます
私は体重、2008㎏の未熟児で産まれ、今度こそ障がいを
覚悟したといいます、ですが私は産まれてすぐ保育器に入れられたものの元気と判断されるすぐに出されたといいます私は、その後も普通の子と遅くなりながらも着々と成長していきました
ここで母が言ってた一言を先に添えます
義手をするより素の方が動きやすいだってこれが私の1部だから
私がこの言葉を聞いたのは多分物凄く小さい頃だったと思います小さいながらにこの人は強いと感じました
ここからは、本当に私が母を尊敬するべきところへのお話しをしましょう
母は、私達にいつもワンピースや巾着、身に付けるあらゆるものを作ってくれました、そう母の特技は、普通の人でも難しい服飾やエコクラフトのバックを制作することでした
私も姉も小さい頃からお手伝いすることは、ありましたが母が障がいを持ってることを忘れるくらい何の気なしにやってのけるのです
ここまでお伝えしていませんでしたが母は主婦業である家事全般を全て行っていました
彼女は、私にとっても姉にとっても偉大で強く理想の母親像であります
母は、私達に言い続けたことがあります
無理はするな、強く居ようとするな、自分らしくあれそして、努力を怠るなさらに継続は力なりと
ここまで話しした通り母は障がいを持っています
障がいを悪いと言われるこのご時世障がいを気にしない私の母は、姉にも私にも常に平等であれと教えてくれた教材であり母が教師そのものでした
私には、大嫌いで大好きでこうは、なりたくないけど理想なんです矛盾してますがこれが私の母親像であり私の理想であり最も尊敬する人なんです

「死ぬかと思った話」

49歳 男性のストーリー
友人たちと海に行き、遊んでいました。私は学生時代に水泳部だった為に泳ぎは
そこそこ自信があったために岸から大分離れた場所まで難なく泳いでいきました。
大分岸から離れたので足が海底につかないような深さとなっている所であり
水温も低く感じたので、そろそろ帰ろうかと思い岸に向かって泳ぎだしました。
ところが、いくら泳いでも岸から離れていくのです。海底に足もつかない深さの
所であり、本当に焦りました、死を覚悟しました。とりあえず、一番スピードの出る
自由形・クロールで岸に向かいましたがあまり進んでいないみたいでした。
そんな中、ふと離岸流の事を思い出し、対応ぱ岸に直角ではなくナナメに
泳いで行けば良い事を思い出し、無事に帰還することが出来ました。
海には遊泳禁止の所にはちゃんと意味があると実感しました。
自然をナメてはいけません。

「これまでに一番勇気を出した瞬間」

32歳 男性のストーリー
登山が趣味の30代です。
趣味と言っても年間に2〜3の山々を登る程度のすごくライトな登山家です。登るときはいつも単独です。友人、知人の中で登山に興味のある人は誰も居ないので、気づけば誰も誘う事なく、山のぼりたいなーと思ってはふらっと向かい1人登山を楽しんでいます。
そんな中、大分県の由布院にある由布岳に鎖場があるとの情報をネットから仕入れて、つい先日登って来ました。
天気は良好で体調も万全。ただ用事があったため登り始めが11時と遅く少し不安を感じながらスタートしました。
登り出しは良かったのですが、分岐のところまで来た時には辺りは雲の中。時間も遅かったことで周囲に人は居ませんでした。
そして目的の鎖場へ。
岩の壁を10メートル登り、さらにその先にもう一つ10メートルほどの鎖その先には真横に3メートルほど鎖が続く、岩の壁と言うか崖。
周りは雲で身体を煽る強風に、一度滑らせれば、登るも降りるも出来なく慣れば、間違いなく死。
人も居ない平日の山なので確実に死ぬと思うと、足が震えましたが、何故だかもうここは行くしか道がないと思いなんとか進むことができました。
その先も思った以上に難関な道が続き、7時間かけて無事に帰り着きました。
帰って見れば怖いことだらけでしたが、1番怖かったのは下山するまで人に会わなかった事です。
勇気と言うより蛮勇でした。

「おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出」

57歳 男性のストーリー
私の母方の祖父は、信心深かった。顔も丸顔で何時もニコニコしていた記憶しかない。
 そんな祖父は、祖母が裁縫の縫子という仕事をしていたので、着物を他の縫子さんに届けたり、出来上がった着物を依頼主に届けたりという事をしていた。
 祖父夫婦がこの仕事を始めたのは大分と高齢になってからとのことで、祖父が着物を運ぶために自動車の免許証を取ったのも、五十才を超えてからとのことだった。
 高齢で免許を取得したせいか、運転は穏やかで、田舎だったこともあるが、一度も事故を起こしたこともなかったそうだ。
 小学生になってすぐの夏休みに、親と帰省した時に、祖父が着物を運ぶ車に乗せてもらうことになった。今までも、帰省の度に最寄り駅まで送り迎えはしてもらっていたので、親と一緒には乗ったことがあったのだが、その時は、祖父と私の二人っきりでのドライブだった。
 何時もは後ろの座席ばかりだったが、この時初めて助手席に乗せてもらって、私はとても嬉しかったのを、覚えている。
 祖父の家は、一般道までは人が通るには広いが車幅いっぱいいっぱいしかなく、昔の集落の道なので、曲がりくねっているし、角切などしていない直角に曲がる交差点などを通らなければ、出れないような所だった。
 それでも祖父は慣れているので、そろそろと通過して、一般道に出て、目的地に向けて走り出した。集落の道では、車に接近してくる家の壁にドキドキし、一般道では前面の景色に夢中になっていた。しばらくして、ふと、運転している祖父が何か言っているのに気が付いた。話しかけてくれているのに景色に夢中で気が付かなかったのかと思たが、なにかちょっと違う。言っている言葉が、幼い私に向けてではなく、独り言の様なのだ。エンジン音などで聞こえにくいが、よく耳を澄まして聞いてみると・・・
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と運転しながら祖父は言っていたのだ。
 信号で止まったら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏‥」。走り出したら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀」、荷物を降ろしたら「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」・・・。
 帰りは「自分はこのまま、あの世に連れていかれるんじゃないか」と何か怖くなってしまった。
 後で聞いたら、「案園運転、事故除けのおまじないや」とのことだったが、ちょっとトラウマになりかけた出来事だった。
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あらすじ
「あなたの番です」あらすじ
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