「苦手だったのに得意になったエピソード」
50歳 男性のストーリー
私は幼い頃からとても人見知りの性格だったと母親は、言っていました。
小学校3年生の時に生まれ育った大阪から父の転勤の為、遠く離れた九州の福岡に転校をしました。
その時に思ったのが、大阪時代では、とても活発な性格でしたが、福岡に来るとやはり、「転校生」という目で見られたのが、幸いしたのか、皆からは余り声をかけてもらえませんでした。
そこで、私が思っている「大阪パワー」を発揮しました。
大阪の頃は、皆が私を頼ってくれていたのですが、今度は私が、自分から進んで皆に接していくことに頑張りました。
段々と、友人も増えていき、小学校では、友達を増やして、そのまま皆一緒の中学校に進みました。
それから、中学校時代では部活の部長や、生徒会にも参加したので、大阪時代ではない、人との関わりに接しました。
それは、私が、就職先として選んだ「生命保険のセールス」にも、十分すぎるほど、役に立ちました。
初めて会う人への礼儀作法や気遣い。
これは、私が、経験した幼い頃の知らない人への経験があると思います。
私は幼い頃からとても人見知りの性格だったと母親は、言っていました。
小学校3年生の時に生まれ育った大阪から父の転勤の為、遠く離れた九州の福岡に転校をしました。
その時に思ったのが、大阪時代では、とても活発な性格でしたが、福岡に来るとやはり、「転校生」という目で見られたのが、幸いしたのか、皆からは余り声をかけてもらえませんでした。
そこで、私が思っている「大阪パワー」を発揮しました。
大阪の頃は、皆が私を頼ってくれていたのですが、今度は私が、自分から進んで皆に接していくことに頑張りました。
段々と、友人も増えていき、小学校では、友達を増やして、そのまま皆一緒の中学校に進みました。
それから、中学校時代では部活の部長や、生徒会にも参加したので、大阪時代ではない、人との関わりに接しました。
それは、私が、就職先として選んだ「生命保険のセールス」にも、十分すぎるほど、役に立ちました。
初めて会う人への礼儀作法や気遣い。
これは、私が、経験した幼い頃の知らない人への経験があると思います。
「もっとも尊敬する人」
22歳 女性のストーリー
私が最も尊敬するのは母です
では、何故母が尊敬する人なのかお話ししましょう
母は、左手が発達せず左手が無い障がい者としてここ日本九州の大分に産まれ母の家族は、母の下に年の離れた妹1人、弟1人だったそうです母は、長女であった為かたくましく気が強い女性とし成長していき小中高を無事に卒業し、彼女は介護の専門学校へと通います
そして、いずれ宮崎産まれの父親と出会いを果たし専門学校を無事に卒業し、幾年日過ぎて母は、早くにして姉を子にむかえたといいます
母は、左手が無いのにも関わらず小さい赤ちゃんを懸命に育て姉に障がいが出ないか不安はあったといいますがそんな素振りは私達には微塵も伝わってきませんでした
ここからは、私が産まれてきてそして私が覚えてる話しでのお話しでございます
私は体重、2008㎏の未熟児で産まれ、今度こそ障がいを
覚悟したといいます、ですが私は産まれてすぐ保育器に入れられたものの元気と判断されるすぐに出されたといいます私は、その後も普通の子と遅くなりながらも着々と成長していきました
ここで母が言ってた一言を先に添えます
義手をするより素の方が動きやすいだってこれが私の1部だから
私がこの言葉を聞いたのは多分物凄く小さい頃だったと思います小さいながらにこの人は強いと感じました
ここからは、本当に私が母を尊敬するべきところへのお話しをしましょう
母は、私達にいつもワンピースや巾着、身に付けるあらゆるものを作ってくれました、そう母の特技は、普通の人でも難しい服飾やエコクラフトのバックを制作することでした
私も姉も小さい頃からお手伝いすることは、ありましたが母が障がいを持ってることを忘れるくらい何の気なしにやってのけるのです
ここまでお伝えしていませんでしたが母は主婦業である家事全般を全て行っていました
彼女は、私にとっても姉にとっても偉大で強く理想の母親像であります
母は、私達に言い続けたことがあります
無理はするな、強く居ようとするな、自分らしくあれそして、努力を怠るなさらに継続は力なりと
ここまで話しした通り母は障がいを持っています
障がいを悪いと言われるこのご時世障がいを気にしない私の母は、姉にも私にも常に平等であれと教えてくれた教材であり母が教師そのものでした
私には、大嫌いで大好きでこうは、なりたくないけど理想なんです矛盾してますがこれが私の母親像であり私の理想であり最も尊敬する人なんです
私が最も尊敬するのは母です
では、何故母が尊敬する人なのかお話ししましょう
母は、左手が発達せず左手が無い障がい者としてここ日本九州の大分に産まれ母の家族は、母の下に年の離れた妹1人、弟1人だったそうです母は、長女であった為かたくましく気が強い女性とし成長していき小中高を無事に卒業し、彼女は介護の専門学校へと通います
そして、いずれ宮崎産まれの父親と出会いを果たし専門学校を無事に卒業し、幾年日過ぎて母は、早くにして姉を子にむかえたといいます
母は、左手が無いのにも関わらず小さい赤ちゃんを懸命に育て姉に障がいが出ないか不安はあったといいますがそんな素振りは私達には微塵も伝わってきませんでした
ここからは、私が産まれてきてそして私が覚えてる話しでのお話しでございます
私は体重、2008㎏の未熟児で産まれ、今度こそ障がいを
覚悟したといいます、ですが私は産まれてすぐ保育器に入れられたものの元気と判断されるすぐに出されたといいます私は、その後も普通の子と遅くなりながらも着々と成長していきました
ここで母が言ってた一言を先に添えます
義手をするより素の方が動きやすいだってこれが私の1部だから
私がこの言葉を聞いたのは多分物凄く小さい頃だったと思います小さいながらにこの人は強いと感じました
ここからは、本当に私が母を尊敬するべきところへのお話しをしましょう
母は、私達にいつもワンピースや巾着、身に付けるあらゆるものを作ってくれました、そう母の特技は、普通の人でも難しい服飾やエコクラフトのバックを制作することでした
私も姉も小さい頃からお手伝いすることは、ありましたが母が障がいを持ってることを忘れるくらい何の気なしにやってのけるのです
ここまでお伝えしていませんでしたが母は主婦業である家事全般を全て行っていました
彼女は、私にとっても姉にとっても偉大で強く理想の母親像であります
母は、私達に言い続けたことがあります
無理はするな、強く居ようとするな、自分らしくあれそして、努力を怠るなさらに継続は力なりと
ここまで話しした通り母は障がいを持っています
障がいを悪いと言われるこのご時世障がいを気にしない私の母は、姉にも私にも常に平等であれと教えてくれた教材であり母が教師そのものでした
私には、大嫌いで大好きでこうは、なりたくないけど理想なんです矛盾してますがこれが私の母親像であり私の理想であり最も尊敬する人なんです
「学校や仕事をサボってやったこと」
41歳 男性のストーリー
当時のメル友が九州にいて、どうしても会って話がしたいと連絡があり、関西から仕事を丸3日サボり車で向かいました。九州には初めて行くので友達に夜中から美味しいラーメンをたべにいこうと誘いそのまま九州へ向かいました。
岡山辺りで友達がかなりの抵抗をして来ましたがメル友に友達を呼んでもらうことにして難を逃れ10時間かけて九州に到着しました。
無事にメル友と合流して1日遊び関西へと戻ったのですが、仕事場からの電話が鳴り止まず、言い訳を二人で考えながらゆっくりと戻りました。結局、インフルエンザという言い訳は通用せずにクビは免れましたが減給とボーナス査定のマイナスとなりました。
でも、メル友にあう会社をサボるなどドキドキも多く未だに良い思い出です。
当時のメル友が九州にいて、どうしても会って話がしたいと連絡があり、関西から仕事を丸3日サボり車で向かいました。九州には初めて行くので友達に夜中から美味しいラーメンをたべにいこうと誘いそのまま九州へ向かいました。
岡山辺りで友達がかなりの抵抗をして来ましたがメル友に友達を呼んでもらうことにして難を逃れ10時間かけて九州に到着しました。
無事にメル友と合流して1日遊び関西へと戻ったのですが、仕事場からの電話が鳴り止まず、言い訳を二人で考えながらゆっくりと戻りました。結局、インフルエンザという言い訳は通用せずにクビは免れましたが減給とボーナス査定のマイナスとなりました。
でも、メル友にあう会社をサボるなどドキドキも多く未だに良い思い出です。
「修学旅行の思い出」
55歳 男性のストーリー
中学のとき、沖縄から九州へ。
長崎は、グラバー邸でコーラを飲む。
当然ながら、観光地巡るので、それなりに、人がいっぱい。
長崎の平和公園では、友だちとだらだら歩いたので、昼食に遅刻して、先生に怒られた。
あと、どこかの城へ行った。
熊本城?
武者返しの部分で、走ってどこまで登れるか、友だちと競いあった。
熊本では阿蘇山にも行って、ガイドの人に火山についての説明をされて、いろいろと勉強になった。
火山といえば、鹿児島では、いきなり桜島の火山灰が降ってきて、学生服の背中が白っぽくなった。
そこでは、名産?の焼き饅頭も食べた。
あと、どこかのドライブインで食べた、揚げじゃがいも?はうまかった。
船で一日かけて行ったので、旅行中ほとんど船酔い状態。
そして、おそらくみんな、便秘状態。
船中では、なぜか、カップルがたくさん誕生してました。
中学のとき、沖縄から九州へ。
長崎は、グラバー邸でコーラを飲む。
当然ながら、観光地巡るので、それなりに、人がいっぱい。
長崎の平和公園では、友だちとだらだら歩いたので、昼食に遅刻して、先生に怒られた。
あと、どこかの城へ行った。
熊本城?
武者返しの部分で、走ってどこまで登れるか、友だちと競いあった。
熊本では阿蘇山にも行って、ガイドの人に火山についての説明をされて、いろいろと勉強になった。
火山といえば、鹿児島では、いきなり桜島の火山灰が降ってきて、学生服の背中が白っぽくなった。
そこでは、名産?の焼き饅頭も食べた。
あと、どこかのドライブインで食べた、揚げじゃがいも?はうまかった。
船で一日かけて行ったので、旅行中ほとんど船酔い状態。
そして、おそらくみんな、便秘状態。
船中では、なぜか、カップルがたくさん誕生してました。
31歳 女性のストーリー
高校生の時の修学旅行の思い出です。当初、海外の予定でしたが、当時新型肺炎が海外で流行しており、急遽国内となった修学旅行。行先は九州でしたが、初めての九州、また修学旅行ということで、みんなとても楽しみにしておりました。
長崎、熊本を周りましたが、夜は遅くまで友達をお喋りをしており、移動中のバスの中ではほとんど寝ておりました。
そして、最終日ですがこの日は朝から台風が九州に接近しており、天気が大荒れでした。風雨ともに大変強く、飛行機が飛ぶのかみんな不安でしたが、案の定、飛行機は欠航してしまいました。
結局、予定にはなかった福岡に1泊し、翌日に帰ってきました。
当時、みんなは大変喜んでましたが、先生方は大変だったんだろうなと思います。なかなかない経験が出来、一生の思い出になりました。
高校生の時の修学旅行の思い出です。当初、海外の予定でしたが、当時新型肺炎が海外で流行しており、急遽国内となった修学旅行。行先は九州でしたが、初めての九州、また修学旅行ということで、みんなとても楽しみにしておりました。
長崎、熊本を周りましたが、夜は遅くまで友達をお喋りをしており、移動中のバスの中ではほとんど寝ておりました。
そして、最終日ですがこの日は朝から台風が九州に接近しており、天気が大荒れでした。風雨ともに大変強く、飛行機が飛ぶのかみんな不安でしたが、案の定、飛行機は欠航してしまいました。
結局、予定にはなかった福岡に1泊し、翌日に帰ってきました。
当時、みんなは大変喜んでましたが、先生方は大変だったんだろうなと思います。なかなかない経験が出来、一生の思い出になりました。
「奇跡だと思った話」
26歳 女性のストーリー
1年半お付き合いをしている彼との共通の趣味は旅行。二人ともまとまった休みが取れるときにはよく旅行に出かけています。
今年の5月には山口〜福岡へ旅行に行きました。天気予報は少し怪しい雰囲気。あとは当日の運次第、ということに。
いざ当日を迎えてみると旅行中は毎日晴れていてすごく楽しめました。
それだけではなく今年の夏には沖縄旅行を予定していました。天気予報では九州方面荒れ模様。
夏の沖縄ということで海でのアクティビティもたくさん予定していて飛行機が飛ぶのか、旅行中は雨で終わってしまうのか心配していました。
いざ迎えた旅行当日。2泊3日の行程で行きましたが見事に毎日快晴!!
一方その頃本州では大雨。九州でも災害級の雨が降っているほどでした。
見事に雨雲から逃げての旅行となり再び奇跡が訪れたと感じました。
1年半お付き合いをしている彼との共通の趣味は旅行。二人ともまとまった休みが取れるときにはよく旅行に出かけています。
今年の5月には山口〜福岡へ旅行に行きました。天気予報は少し怪しい雰囲気。あとは当日の運次第、ということに。
いざ当日を迎えてみると旅行中は毎日晴れていてすごく楽しめました。
それだけではなく今年の夏には沖縄旅行を予定していました。天気予報では九州方面荒れ模様。
夏の沖縄ということで海でのアクティビティもたくさん予定していて飛行機が飛ぶのか、旅行中は雨で終わってしまうのか心配していました。
いざ迎えた旅行当日。2泊3日の行程で行きましたが見事に毎日快晴!!
一方その頃本州では大雨。九州でも災害級の雨が降っているほどでした。
見事に雨雲から逃げての旅行となり再び奇跡が訪れたと感じました。
「一番おいしかった食べ物」
45歳 男性のストーリー
私が過去一番おいしかった食べ物は、意外と思われるかもしれませんが博多のとんこつラーメンです。
以前私はラーメンといえば味噌、とおもっており、豚骨ラーメンはどちらかというとブタくさいにおいのきついものぐらいにしか思っていませんでした。
その私が福岡に転勤になり1年間すごしたことがあります。
福岡県は博多ラーメンの聖地、飲み会の後などは〆で博多ラーメンを食べることがでてきたのですが、これが非常にうまい、この時とりこになりました。
いまだに福岡含めた九州にはよく出張にいきますが、この時はかならずラーメンを食べます。今では博多なら博多ラーメン、長浜ラーメン、久留米なら久留米ラーメン、熊本ならマー油たっぷりの熊本ラーメンなどもう豚骨ラーメンの虜です。
私が過去一番おいしかった食べ物は、意外と思われるかもしれませんが博多のとんこつラーメンです。
以前私はラーメンといえば味噌、とおもっており、豚骨ラーメンはどちらかというとブタくさいにおいのきついものぐらいにしか思っていませんでした。
その私が福岡に転勤になり1年間すごしたことがあります。
福岡県は博多ラーメンの聖地、飲み会の後などは〆で博多ラーメンを食べることがでてきたのですが、これが非常にうまい、この時とりこになりました。
いまだに福岡含めた九州にはよく出張にいきますが、この時はかならずラーメンを食べます。今では博多なら博多ラーメン、長浜ラーメン、久留米なら久留米ラーメン、熊本ならマー油たっぷりの熊本ラーメンなどもう豚骨ラーメンの虜です。
「おじいちゃん、おばあちゃんとの思い出」
21歳 男性のストーリー
私のおじいちゃん、おばあちゃんは九州に住んでいます。
私は関東に住んでいるので、滅多に会いに行くことができず、夏休み等の長期休暇でしか会うことができませんでした。
おじいちゃん、おばあちゃんの家は、周りに温泉や観光地が多くあったため、おじいちゃんの車の運転でよく遊びに行きました。
食も豊富で、地元の漁港で取れた魚の刺身がとてもおいしかったです。
中でも特に思い出深いのは、私が関東に帰る前の日の夕飯で食べたすき焼きです。
全国的にも有名な地元の牛肉を使ったすき焼きは格別でした。
小さい子供のころの出来事ですが、とても思い出深いことです。
社会人となった今では、夏休みも短く、さらに会いに行きにくくなりましたが、また機会があればすき焼きをしたいと思っています、
私のおじいちゃん、おばあちゃんは九州に住んでいます。
私は関東に住んでいるので、滅多に会いに行くことができず、夏休み等の長期休暇でしか会うことができませんでした。
おじいちゃん、おばあちゃんの家は、周りに温泉や観光地が多くあったため、おじいちゃんの車の運転でよく遊びに行きました。
食も豊富で、地元の漁港で取れた魚の刺身がとてもおいしかったです。
中でも特に思い出深いのは、私が関東に帰る前の日の夕飯で食べたすき焼きです。
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